ウチそと研通信65 −像と物−

町田市民文学館「紙芝居がやってきた」展(4/24〜7/4)を見た。
黄金バット」や「鞍馬天狗」などの初期のものから、戦後、幼稚園などで普及した童話を原作とした紙芝居まで、その流れを一望することできて面白かった。紙芝居は飴や駄菓子を売って見せる「街頭紙芝居」と、教育を目的とする「教育紙芝居」の2つに分けられる。
街頭紙芝居は、高度経済成長期に入って急速にすたれたとはいえ、私が子供の頃の1960年代でも細々とやっていた。自分もソースせんべいを食べながら見た記憶がある。ただ、自分の見た紙芝居がどのような話であったかは全く覚えてはいない。薄いせんべいに三角のコーンの鼻と酸っぱい梅ジャムでできたミッキーマウスの姿がうっすらと思い浮かぶだけである。
いまこうして「街頭」、「教育」を見比べてみると、やはり面白いのは「街頭」である。ちっとも洗練されていない絵、かなり乱暴で強引なストーリー。駄菓子のように口の中が真っ赤、あるいは真っ青になりそうな、毒々しくて、いかがわしい魅力がある。すでにテレビが普及していた時代、土門拳の写真に写っている子供たちほどではないにしろ、私も真剣に見ていたのだろうと思う。
どの紙芝居も10枚程度で、情報量にしたらたいしたことはないが、それを楽しむためにいかに手間がかかったことか。おじさんがやってくるのを待って、いい場所をとって、少ない小遣いからお菓子を買って見る。それでも毎回「いいところ」で終わってしまい、何回も通わなくてはすべての話を見ることはできない。とにかくかつてのメディアは、情報を手に入れるまでに多くの手続きが必要だったし、ひとりでこっそりと楽しむことなどできなかった。省略したくてもどうすることもできない面倒さ。そういうものと引き換えに手にすることができる娯楽だった。
展示の中で、デジタルフォトフレームで紙芝居を紹介しているのがあった。そういえばパワーポイントやスライドショーも紙芝居的ではあるが、やっぱり違う。それは人が実演するか、自動なのかということではなく、絵柄は一緒でも、モノとしての手触り、感触が異なるのが理由ではないだろうか。色が焼け、角が磨り減った使い古された紙芝居(一点もの?)の魅力。
昔、ある作家が、キャンプに古本屋で買った文庫本を持っていき、読み終わると焚き付けにしていたという話を聞いたことがある。もったいなくてバチが当たりそうな気もしたが、星空の下、ひとりページを破いては焚き火にくべている姿を思い浮かべるとカッコよく、いつか真似しようなどと思ったりもした。そういえば本当にそんなことをした人がいたのか知らないが、単語を憶えた端から辞書を破って食べていくなんていう話もあった。先日、早稲田の古本屋で手に入れた稲垣足穂の「人間人形時代」は、本の真ん中に穴が開いている。もし将来、本棚から本が消えたら引越しはずいぶんと楽になるだろうが、私のような読書家でない人間でさえ多少抱いていた本への愛着、物欲の行き先はどうなるのだろうかなどと、穴を覗きながらそんなことを考えた。