ウチそと研通信27 −「風」を考える−

風景という言葉をあらためて眺め、「風」の文字に目が止まった。landscape、sceneryなら、単語の成り立ちに「風」はとりたてて関係していないと見られるのに対し、訳語に当たる現代日本語の言い方だとこのとおり、「風」が織り込まれている。それはどんな「風」であろう? 原っぱを吹き渡り、木々をざわめかせ、開いた窓から流れ込んでくる自然現象であるところの風だろうか。それとも、和風とか関西風、プロヴァンス風、××風というように、何かを何かになぞらえ、見立て、分類したりするときに呼び出される、便利なあの「風」概念の使用法がここにも関わりを持つのか。そのどちらの含意もが絡んでいる気がしないでもない。
とにかくこの一字を噛ませた効果は相当なもので、「景色」とか「光景」といった類似の言い方なら、知覚主体のカラダの近傍より連続的にひろがった、温度や乾湿の肌合い、匂いや物音などとも混じり合いつつ展開する眺めをいうニュアンスをしばしば感じるけれど、「風景」となると距離がひらき、空間がおもに水平方向に面として伸びひろがり、また反比例的に、知覚する主体の側の存在感はポツンと小さくなっていく、そんなふうに思えるのだ。「風」の字を織り込むと、知覚者と周りの世界の間にある種の疎隔化・遠隔化の作用が生じるらしい。心象光景とはあまりいわず、心象風景とならいう。すなわちそれは、今ここからの遠ざかりとして、隔たりとともに想い描かれるものなので、だから「光」より「風」の字が似つかわしく馴染みやすいのだろう。
いっぽう「風景」の語感には、使われる文脈によって「コスモロジー」級の概念の雄大なひろがりが浮かんでくることもあると思う。また、こうも考えられる。「風」という字は、土地の記憶を引き連れてくるのではないか。
感覚上の現象をあらわす「風光」、「風味」、そして「風物」など、これらの「風」族の語彙には、どこかしら土地のイメージを喚起・誘引し、思い浮べさせるような共通の性質がありはしないだろうか。一つの土地、地名をともなう実在の土地だけとは限らず、きれぎれの断片になって入り混じる土地のイメージの輻輳状態であったり、夢の中の土地であったり、それらを「風」が思い出させる。