ウチそと研通信53 −近代美術館で木村荘八の挿絵をみる−

 先日、写真の内側・外側研究会の今年最後の例会があり、竹橋の近代美術館の常設展示を会の皆さんとみることになった。メンバーのほとんどはここの常設展示はすでにお馴染みで、私も半年に一度は必ずこの場所を訪れている。
 何度も目にした作品ばかりではあるが、大勢で同じ物をみ、またその後で互いに感想を述べ合うということになると、最初から他の人と自分の見方の差異がどこかでやはり気になり、個人的に作品と向かい合うのとは違う気持が湧いてくる。このような集まりの面白い点だろう。展示を見終わった後のお茶を飲みながらの感想の交換もいつも興味深い。高村光太郎の手首の彫刻にいつも惹かれるというMさんやOさんの感想、写真の作品は絵画と違いサラッと眼を通り過ぎてゆくようだというHさんの意見など、自分ひとりでは気付かなかったような感覚がとても新鮮に感じられる。展示企画のひとつに、岸田劉生などの具体的な展示作品に添いながら、西欧油絵の技法と日本人画家との結びつきを分析している一間があり、小規模ながらわかりやすく、これは全員が丸印をつけた企画だった。絵の具を重ねてゆくというプロセスの意味と作者の意図との関係が、個人的には気になり、またとても興味深い。
 そのような小企画のひとつに木村荘八の描いた『濹東綺譚』の挿絵原画の展示があり、これは有難かった。朝日新聞に連載された時の挿絵の原画で、修正のあとなどが生々しい。写真で言えばキャビネ判ほどの大きさの画面を見ている間、その小さな線画は細密な描写のミニアチュールのように思え、そのなかに体が吸い込まれてしまうような気持になった。特に印象的なのは、戦前の下町の宵の闇の有様と、町を照らし出す演劇的な人工の光の効果であった。街灯や店の照明に浮き上がる街角の形態。薄暗いような、ほの明るいような、曖昧な街の闇の中で歩いたり佇んでいたりする様々な人々など、小さな挿絵の画面がジオラマのように見え出してくるのである。画面の中に込められた大道具、小道具、登場人物たちの衣装、風俗が過不足なく正確に写しとられていて、これがミニアチュールのように、またジオラマのように思わせるのだろう。木村荘八はこの挿絵の仕事を引き受けてから玉の井に通い、取材を繰り返したと言うが、細部の描写と全体のまとまりには間然としたところがなく、細部と全体を滑らかに気持を行き来させることができる。そして細かな風俗と文物が的確にスケッチされているのは凄い。
 このような木村荘八の町や暮らしの細部へと通じる関心は、書名も「東京の風俗」と言う本にその一端が示されている。富山房版の「東京の風俗」には前田愛さんの外題が添えられているが、そこで誰もが見失いがちな暮らしの細部が実は時代や文明を生き生きと伝えるはずだと述べられている。たしかに木村荘八の挿絵からそのようなことを痛切に感じさせられるのである。デティールに対する思いの深さが木村荘八の挿絵を支えているように考えられる。木村荘八玉の井通いの時期は、木村伊兵衛桑原甲子雄といった人々の戦前の写真と場所も含めて重なるところがあるけれど、見て感じるところの体温の違いがどこかにあるようで、これも個人的にかなり気になった点である。前回の通信で大山さんが書かれていたフレームの問題でいえば、展示された木村荘八の画はフレームが曖昧で、紙の余白にイメージが溶け込んでゆくような、もしくは白い紙にイメージが浮遊するように描かれているかのようである。さらにこれは余談かもしれないが、展示をみながら戦後の六浦光雄というひとの絵を思い出したりもした。