ウチそと研通信61 −「美術家の肖像」 1950−

大辻清司の最初期の作品には、金属や有機物などの様々な素材を組み合わせ、密室的状況の中で撮影したオブジェの写真が多かった。そもそも大辻が写真の魅力に強く惹かれだすのは中学生の頃、偶々古書店で見つけた写真雑誌『フォトタイムス』のおもに1930年代後半に刊行されたバックナンバーをとおして、海外や日本における前衛写真の幅広い動向に触れたことをきっかけとしており、同誌でその頃毎号のように掲載されていた瀧口修造の論説(「物体と写真」「超現実主義と写真」等々)にとりわけ感化を受けた、と彼自身が後年たびたび語っている。「前衛写真に魅了されたのは、写真でありながら従来の写真の脈絡とは無縁であるらしいこと、つまり極めて現実的な描写でありながらひょいと現実を飛び越えてしまって、夢幻の世界に属してしまうことが、僕の希求を満たすところがあったのだと思う。」
瀧口修造の言葉に媒介されシュルレアリスムのオブジェの概念に親しんだことが、大辻の写真行為の始まりを大きく方向づけたと考えられる。だが、そのことは彼がなにかしら一定した表現上のスタイルを見出し、早々と確立したことを意味してはいない。最初の発表作「いたましき物体」(1949年)以来、大辻の1950年代の作品制作をたどると、彼がむしろスタイルの安定を壊すことを優先し、方法を一作ごとにさまざま変化させているのがわかる。例えばある時は、人の身体をモチーフとして各部位をいったん別々に撮り分け再び組み合わせるというコラージュ的な構成を試み、またある時は、暗室での特殊技法によりネガ像の中のオブジェを取り囲む背景をすべて黒く塗りつぶしてしまう、という具合に。その実験的な制作ぶりに対し、既成ジャーナリズムの写真評論家渡辺勉から「もはや写真作品とはいえない」と否定的に書かれたこともあったが、その時、大辻はこう反論した。「社会的環境が時間とともに変るにつれて、われわれの意識も変っていきますが、その革新し、またしつつある精神を、古い表現方法で現(ママ)わすことは出来ないのです。何故なら、作品(形式)と意識(内容)は一体のものでありどちらかが独立して存在することはあり得ないからです。そこで新しい意識は表現力の拡充を必要とし、渡辺氏の柵を破らざるを得なくなるのです。」
このような大辻と評論家の対決シーンは、作曲家武満徹のデビュー作となったピアノ曲「二つのレント」(1950年)が、発表時、新聞評で音楽評論家山根銀二から「音楽以前である」と書かれたという、構図の似かよったエピソードを想起させる。インターメディアのグループ「実験工房」でやがて名を列ねる大辻と武満は、どちらも出発当初、「写真」や「音楽」といったカテゴリーを外れているという言われ方で、先行世代の評論家に一蹴されたわけである。その種の見方に抗い、若い武満は主張した。「今日、音楽の世界で、未来に向う積極的な確かなものを掴みとるには、ただ一つの方法しかない。それは、芸術以前といわれる状態にまで立ち帰えることである。これは、音に附随する、意味と機能を断ち切ることを意味する。僕らは、新しい様式をかりて、伝統的な建物を再建するわずらわしさと、繰返しをもう避けなければいけない。其処からは、何ものも生れないからだ。」
大辻はまた、写真活動をスタートした頃より、個人としての制作だけでなく他のアーティストとの協働の試みにも、たびたび意欲を注いでいる。多中心的な相互干渉をつうじ作る過程を導きだしていくことの面白さ、未知なる可能性を、彼は早くから予感し大切にしたのだと考えられる。画家阿部展也との共作による「美術家の肖像」(1950年)は、その重要な初期の一例だろう。
かつて1930年代に自分でも写真作品を手がけ、前衛写真運動に参加し、瀧口修造と詩画集『妖精の距離』(瀧口の詩と阿部のドゥローイングによる、1937年)を共作したことでも知られる阿部は、戦後のこの時期も、画家として精力的に活動しており、前衛美術団体「美術文化協会」などで指導的な立場を担う存在だった。大辻も1950年前後の頃、美術文化協会に所属した一時期があり、同協会の若手メンバーらが阿部のアトリエに集まり、モホリ=ナジ(「VISION IN MOTION」)やジョージ・ケペシュ(「LANGUEGE OF VISION」)の造形理論をテキストにして催したという研究会の場にも参加していた。「美術家の肖像」を含む数点からなるシリーズは、その阿部のアトリエで撮影されたものらしい。「今日の破滅の不安に答を求め無に対決する現代芸術の動きの中における一画家の私が、どのような姿で大辻君の写真にあらわれて来るかということに演出の期待があった」と阿部がいうように、このシリーズでは、阿部の投げかけるアイデアと演出に基づき、それを大辻がどのように引き受け写真化していくかがまさに験された。室内の奥行きと広がりを針金、糸、縄などの線のインスタレーションによって区切り、何もない中空への意識を喚びさます空間演出は、阿部が語った次のような認識との関連を窺わせる。「空なるものから実在を認識するという態度、つまり、人間やヒマワリの形が決定するためには、大気の圧力の中にどう存在するかという抵抗のもとにその存在があったということをわれわれは忘れている。見えない抵抗を忘れてその存在だけを見ている。それは大気の気圧といってもいいし、宇宙あるいは無といってもいい。…それをどう画面に入れていくか、宇宙に通じた後ろの世界を暗示できるかということですね。」 モノを凝視することを志向する写真家として出発した大辻は、阿部との協働をつうじ、モノを包んでいる「見えない抵抗」としての大気、宇宙、無の広がりへも眼差しをひらく、その契機とヒントを得たのかもしれない。
「美術家の肖像」では、異なる存在、ヌードと着衣の二人の女性どうしが無関係なポーズのまま隣り合わされ、互いを際立て合い、画面に硬質で密度あるエロティシズムが匂いたつ。この写真に提示された光景は、一種の舞台空間として眺めることも可能なはずで、実験工房のメンバーたちがその数年先に取り組む、「未来のイヴ」他のバレー実験劇場やシェーンベルク月に憑かれたピエロ」の舞台化(円形劇場形式による創作劇)等での空間構成や人間像の造形・演出へと連なっていく様相をそこに孕んでいると思える。
モデルとなった二人の女性のうち、着衣の人は画家福島秀子。1948年7月、阿部展也も講師の一人をつとめた日本アヴァンギャルド美術家クラブ主催「モダンアート夏期講習会」を受講した福島は、そこで北代省三山口勝弘と出会い、以来ともにグループ展をおこなうなど交流を深めだした。1951年、この同じメンバーが実験工房結成に参加し、グループの造形部門を担うことになる(大辻が実験工房に加わるのは1953年)。「美術家の肖像」はいわば実験工房前夜の息吹きをつたえ、未知の地平へ向かおうとする若いアーティストの相貌を告げる、一つの序曲でもあった。


追記
この写真が1950年当時「モダンアーチストによる新しい演出写真」というタイトルで雑誌「camera」に発表された際、「アーチスト」とは阿部展也を指していたはずだが、時を隔て1980年代以降、大辻はこれを「美術家の肖像」と新たに呼び換えており、この場合にいう「美術家」はあきらかに福島秀子を指し、タイトルの示唆する主役的存在が移動している。