ウチそと研通信63 −「夢の抜け口」から始まって−

先月のウチそと研の集まりでメンバーの大日方さんから一冊の本を頂いた。本の題名は「夢の抜け口」という。京都の甲斐扶佐義さんが京都の日常を長期間撮影した写真と、杉本秀太郎さんの書き起こす、夢の事柄と実際の事柄を織りあわせた文とで出来上がっている本である。甲斐さんの写真は以前からすでに数多く写真集などで拝見しているので、馴染み!のある甲斐さんの写真が何点も姿を現してくるのを、その場で早速ページをめくりながらたのしみ眺めてみた。大日方さんからは何の説明もなく手渡されたが、実は恥ずかしいことながら、私は杉本秀太郎という人のことも文章も知らなかったのである。
さて帰りの車中、冒頭から杉本さんの文章を読み始めるとなんとも心が騒ぎだすのを感じだしてしまった。甲斐さんの写真の選択も杉本さんの手になるようだ。文章を読みながら出遭う、この本のなかの写真の選択と配列から果たしてどんな印象を与えられたのか、実はいまだによく身に沁みては来ない。文章と向き合ったり、響きあったり、はしていないようだ。しかし、かといって気にならないとか邪魔だとかも思えず、眼に入る甲斐さんの写真のなかに写されているものへと気持ちが引っ張られてゆく。そしてその時それは、これまで甲斐さんの写真を独立してみていた時に感じていたことも含めながら、すでに私の背中には杉本さんの文の世界が貼りついているのである。これまでもテキストとイメージが組み合わされたものは幾つも目にしているはずだが、なんとも腑に落ちるような、落ちないような、どこかずれて感受する印象はどうしたものなのだろうかと、いまだに考え込まされている。溶け合っていることはあまり感じられない。また心地よいとも必ずしもいえない苦味もある。だが多分、本のなか、文章、写真のなかにも幾つもヒントは残されているのだろうが、甲斐さんのこれまでどおり豊かな親密さを漂わせる写真が、写されているものはそのままに、何かが変容して、さらに時や時間を隔てた世界、もしくは見知っているけれどこの世界と違う世界の映像へと移しかえられようとしていることを感じさせる作用が、この書物にはすこしあるようにも思われる。
こんな事を考えながら、もしかしたら、杉本さんもじつは思案の途中のことなのかもしれない、とも思った。しかしそれもどうでもよいことかもしれない。テキストを体の中に流し、甲斐さんの写真も体の中に流しこんでゆくことが自分のこの書物を見ていることの充実かとも思ったりしている。そのようなわけで、杉本さんが甲斐さんのその写真を選ぶきっかけとなったひとつひとつの写真の湛え、杉本さんに向かって発散しているものがどういうものなのか、幾つも下手な想像をしてみているところである。あとがきなどで杉本さんが述べられていることを含めて、自身のことと考えさせられていることはあり、そして杉本秀太郎というひとの文章をすこしづつ、「夢の抜け口」の後に興味深く読んでみている。