ウチそと研通信80 −曖昧さの固定−

マンションの折り込み広告だとか、雑誌に載っている新しいショップの完成イメージ、完成予想図。それから、化粧品や洗剤、薬品などのテレビコマーシャルによくある、人体の各部の断面のイメージ。たとえ想像図や模式図であるという注意書きがあったとしても、いちど絵になると省略も強調も固定され、それなりに現実味を帯びて説得力を持つようになってくる。形のないもの、見えないものに形を与えて何かを伝えるための明確な意図を持ったイメージ。
一方、昨日行われた飯田さんと大西さんのトークショーhttp://www.tamron60.com/)で、「写真を撮るために町を歩いているのではない」という飯田さんの発言があったが、町を歩いていて、特にねらいがあるわけでもなく、とりあえずレンズを向けてフレーミングしてシャッターを押すことがある。私が普段使っているパノラマカメラはパンフォーカスなのでピント合わせがいらないし、画角もほとんど視野に近いのでファインダーすら覗かない場合もある。写真というメディアは撮影者自身が意味を理解していなくともイメージを固定することができる。そして、ひとつのイメージがひとつの意味を持っているわけではなく、後から意味がわかったり、あるいは後で意味が変わることもある。
この10年ほど「聖域なき…」という文言とともに、礼儀を欠いた門外漢に値踏みされたり分類されたり、何となく息苦しい今日、半ば強引に意味を持たされ固定されたものよりも、曖昧さをそのままにして、フレームの無い或いはフレームをはみ出していくようなイメージに魅力を感じる。