ウチそと研通信81 −水平垂直の世界−

四角形がいつ発明されたのかについて、以前、少々触れたことがあった(ウチそと研通信52−フレームのウチそと5−)。赤瀬川原平氏の『四角形の歴史』(毎日新聞社)によれば、地面の上に何かモノを並べたときの列の重なりが四角形を生んだのではないかと推測している。
しかし私の経験では四角い部屋に暮らしていても、散らかってくると自分の周りのわずかなスペースを残して、その周囲は雑多なもので埋まってしまい、四隅は消えてしまう。何も無いところに、きれいにものを整列させるという発想は、かなり大きな飛躍が必要にちがいない。水平面、地面の上に四角形が現れるのはかなり難しいように思われる。
私が素人なりに考えるに、人間が四角形を思いついたのは、やはり柱を発明した時ではないかと思う。それが竪穴式住居のような建築物の柱なのか、ストーンサークルhttp://www.city.kazuno.akita.jp/kakuka_folder/gakushu/bunkazai/sitei/siseki.jsp)のような石柱であったのかはわからないが、水平な地面に対して柱が垂直に立ち上がった時に、その根元に直角が生じ、柱の上に水平に固定された棒あるいは板によって矩形が生まれたのではないだろうか。以来、四角形は人間世界で増殖し、ガウディやフンデルトヴァッサーのような例外も含みつつ、どこを見ても四角い世界になった。
そもそも球体の表面に暮らしている我々の丸い世界を四角く切り取ることに無理はないだろうか。以前、テレビの旅番組で見た大竹敦人氏の写真は、江戸風鈴のように球体のガラスの内側に塗られた乳剤に、ピンホールで風景を映しこむ作品(http://www.akusyu.com/contents_01/Frame/akusyuFrame02.html)で、ガラス球の風景は球面で歪んではいるが何かとても魅力的で一度この目で確かめてみたいと思っている。
また、先日御岳山で観た齋藤修氏の「木口版画」は、木を水平に輪切りにした木口に彫られたもので、その細密さは一見、銅版画と見間違えてしまう(http://www.okutamas.co.jp/seseragi/exhibition.htm)。版面が木口なので、その外縁は矩形ではなく、木々の成長の仕方によって複雑な形となる。昔、顕微鏡でのぞいたプレパラート上のスライスされた標本のように「自然」な感じがする。
自然の中の人工物は違和感を覚えるし、逆に人工の中の自然物もまた目立つ。その境をどうするかが、建築、造園、都市計画などの肝なのだろう。どちらかが多い、少ない場合、少ない方が違和感の素になり、多すぎず少なすぎず、うまくバランスがとれていればよい景色となる。
絵画や写真はフレームに収まってはいるものの、実空間に展示されることでフレームの外に向かう意識が阻害されない気がする。しかし、パソコンやタブレットのディスプレイの世界は、フレームが内へ内へと無限に連なって、世界を縮めていくように感じられる。