ウチそと研通信106 −曖昧な人体像 その1−

この数年、病院に通うことが多くなった。スポーツや舞踊など身体を動かすことを日常としている人は別として、一般の人間が自分の身体について意識するのは病気や怪我など体調を崩した時だろう。
医師から患者にされる病状や治療についてのインフォームド・コンセントは、それを聞く患者にどこまで理解されているのだろうか。われわれが普段イメージしている人体像は、子供のころに見た人体模型あるいは理科の教科書のなかの人体図、また、テレビCMでの誇張・単純化されたCGによる治癒のイメージだろうか。そんな不確かなイメージと、「悪玉」や「善玉」などのわかりやすすぎる言葉で、見ることのできない自らの体に起こった変化を、病室の患者たちは確信に近いくらい強い口調で語りあう。これが健康食品や美容の話になるとかなりもうあやしい。
最近、『海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想』(三木成夫)を読んだ。なぜもっと早く知らなかったのだろうかと思う。学生の頃、解剖学も発生学もあまり真剣に学んではいなかったからか、その名前に一度も引っかからずにいた。
比較解剖学や発生学、生命の歴史、進化を考えてきた研究者ならではの地質学的な数億年、数千万年の長い視野から、人間の形態、生理について語られる言葉に魅かれた。冒頭の魚のえら呼吸と人間の肺呼吸の比較の話では、水族館の魚を見て“その口を閉じては開き、閉じては開き、冷酷なほどの落ち着いたペースで、なにものにも動じることなくその呼吸がつづけられてゆくのである”と語り、人間については“つまり「動作」と「呼吸」はけっして両立しえないものであって(略)ひと息つくのは、ひとつの動作から次の動作に移るそのあいだだけにかぎられる。これを「間」と呼ぶ。”という。
政治や経済、科学や技術、教育など様々な分野で登場する専門家と呼ばれる人々の言葉が上滑りしているなか、このような言葉に出会うと少しほっとする。