ウチそと研通信111 −『アンドレ・カイヤット「シンデレラの罠」の記憶』−

たまに以前見て面白いと思った映画をDVDなどで見直すことがある。あらためて見ると自分の中の漠然とした映画の記憶の塊がもう一度洗い直される。見直す映画も二十歳代までに見たものが、印象の食い違いに大きな差が出てくるようで面白い。トリュフォの映画ではその違いがよく感じられたりするし、ロベール・アンリコの映画もそのような気持ちになることが多い。二人ともどこか青春の映画という感じもあり、経験を含めて見る側の年齢という要素が大きいのだろう。そうしたなかでいつか見直してみたいという映画がいくつかあるが、なかなか見ることができない映画もいくつかある。機会をあらためて何度かウェブで検索してもまだDVDを見つけることのできない作品というのがさすがにあって、残念という気もするがこれはこれで良い事かもしれない。
そのような気になる映画のひとつにアンドレ・カイヤットが1966年に監督した「シンデレラの罠」というモノクロームの映画がある。別に傑作と目されているわけでもなく、地味な推理仕立ての映画と言ったらよいかもしれない。この映画には原作があって、その翻訳を読んだのは映画を見てからずいぶん後のことだ。この映画を見たあとの長い時間、自分のなかで気になり続けていて、幾分かでも映画について知りたいと手に入れたのだと思う。セバスチャン・シャプリゾという作者の、映画と同名の推理小説はフランスで賞を取ったということで、フランスではかなり評判になったものだと思われる。原作者はジャン・バチスト・ロッシの本名で脚本にも参加している。カイヤットの映画は小説の骨格を踏んでいるけれど、小説とは微妙にそして大変に違いがあるようで、原作を翻訳で読む印象より映画のほうが好ましいというのを今でも思う。
物語はお金持ちの娘である「ミ」とその親戚の背丈の似た貧しい娘「ド」の二人の娘が同じ場所で大火事に会い、その火事で記憶を失くし、火傷により元の顔もわからなくなって片方の娘が生き残る。二人の間には確執があり、火事にも事件性が感じられる。この記憶と元の顔を失ってそのどちらかであるか自分自身わからない娘が、傷から回復して記憶を喪失したままふたたび暮らしを開始するのだが、はたして「わたし」は「ミ」と「ド」のどちらなのだろうか。これが映画全体のスリルを引っ張ってゆくテーマとなっている。原作では安香水の名前として示される「シンデレラの罠」というタイトルは皮肉さとロマンティックな気分を含んでいて好ましい。映画は発端の大火事を思い起させる、事故とも主人公の自死とも見られる曖昧な状況の結末を迎えるが、この結末は小説より朦朧とした形で提示される。主人公が「ミ」であるのか「ド」であるのか分明でないままに終わるように記憶している。たぶんこの曖昧、朦朧と感じられた部分に長い間、惹きつけられていたのではないか、とそう思う。
実はこの映画を3回見ている。初めは第4回フランス映画祭という催しで、2回はスバル座でロードショーという形だ。2回のスバル座ではお客の入りは悪く本当にガラガラの客席で、上映はすぐに打ち切られたと聞いている。このように3度もこの映画を見ているくせに、ほんの少しのシーンしかくっきりした記憶がない映画も珍しい。病院で始まる冒頭のシーン、主人公の泊まる場末のホテルの夜の室内に、おもての街のネオンの点滅がチカチカと反映する場面が記憶に残るくらいだ。結末部分で何かがわかるのではないかと、意識がラストシーンに集中したためという気がしないでもない。今度あらためてこの映画を見ることができ、その結末をふたたび知るような機会がもし来たら、自分の思い込みがはっきりと判るようでいささか怖いとも思う。「シンデレラの罠」の個人的な曖昧な記憶に、何かが暗示されているのではないかと長い間考え続けてきたからだ。