ウチそと研通信155 −売野雅勇(うりの まさお)の時代−

今年6月末から7月初めにかけて開催した個展「街の記憶術」は、バブル時代と重なる1980年代半ばの築地の変わりゆく情景を撮影した写真で構成したものだった。来場してくださった方々の中にはあのバブル期のことを知らない若い世代も多く、こちらがたかだか30数年ほど以前と思っていたことが、そうした人たちと話をしていると実はひどく遠いことのように感じさせられ、また写真として残されている、消えてしまった築地の幾つもの眺めが、自分自身から離れて一人歩きをしているようにも見えてくる。
会期中、会場でギャラリーのスタッフの人たちとその時代に流行っていた音楽のことを話す機会があった。まだアイドルポップスや歌謡曲が大勢の人たちに共有されていた頃で、すぐさまいろいろな歌手の名前が飛び出してくる。こちらはすでにいい年になっていたけれど、撮影移動の車の中で彼ら、彼女らの声をいつもよく聴いていた。ちょうど来場者の途絶えたときだったので、ユーチューブで思いつくまま当時の動画をみんなで見ながらはしゃいでしまったが、タイミングが合うとこのようなことで意外にテンションが上がってしまう。
謡曲、いまならJポップというところのものなど(1960年代終わり頃にはジャポップという言い方もあった。)いろいろな人のCDやミュージックテープを聴いていたが、好んで聴いた一人に荻野目洋子がいる。デビュー当時の張り詰めた歌唱も良かったが、アルバムをコンスタントにリリースしていた頃の彼女も素敵に思う。そのアルバムのなかに作曲が筒美京平、作詞が売野雅勇というコンビの作品が多く、特に売野という人の歌詞のフィクショナルなストーリー性をとても面白く感じていた。
売野雅勇は当時の作詞家の中でも売れっ子の一人で、シャネルズやチェッカーズなどにも歌詞を多数提供しているが、荻野目洋子のアルバムでは原宿や表参道、キラー通りなど、また湾岸や芝浦界隈のクラブなどバブルの時代の装置を若者達のストーリーに織り込んで、いかにもその時代を歌うといったものだった。が、しかしその時代を歌いながらその実、売野の言葉の心根がどこか嘘っぽくその時代にいないようで、そしてある種の戦後日本のノスタルジーのかけらを含んでいるところに共感していたように思われる。
その後売野雅勇の名前をあまり眼にすることがなかったが、昨秋、吉祥寺の本屋の店頭に「砂の果実」という売野雅勇の自伝風の本が平積みになっているのを見て、懐かしく手に取ってみた。カバーのイラストは鈴木英人といかにもだったが、本を開くと扉辺りに若い頃の売野雅勇ポートレートが載せられていた。メルセデス・ベンツ220SEクーペの前でポーズをとる細身の彼の姿が、右方あがりの日本の戦後と重なり合う。彼の作った歌を聴きながら、築地の写真を撮っていた頃を思い出す。