ウチそと研通信11 −映像の演出−

吉村公三郎の著作に「映像の演出」と言う本がある。誤解を恐れずに言えば演出の技法書である。内容はまさにタイトルどうりで、いささかの掛け値もない。吉村公三郎は松竹の出身で、後年大映でいくつかの作品を監督している。いわゆる巨匠の一人である。師匠は島津保次郎、また新藤兼人の脚本で多くの作品を残している。
「映像の演出」は1979年の時点で書かれているが、冒頭に吉村自身が述べているように「芸術論」でもなく、芸談あるいは製作過程のレポートでもない。映像をつくる側の基本的で、しかも常識的な問題について具体的に例を挙げつつ記されている書物である。映像をつくる、つまり映像を演出するにあたっての問題を自分がどのように考え、解決していったかを書いている。
例えば「演出か監督か」という章では舞台と映像の演出の違いなどについて語り、「シナリオ」の章では監督としてシナリオをどう扱い、またよりよいシナリオを書いて貰うための心構え、そして自身のシナリオなら客観的に再吟味することなど、「枠(フレーム)について」という章では、師匠の島津保次郎に言われた「ね、君、これからオレのいうことをよく聞けよ。映画は枠(わく)だ!」ということばから自分の作品、小津安二郎などの映画の構造について考えてゆく。この場合も、自分の体験してきた事柄からわかりやすく記述されていて、確かに「芸術論」ではないことを実感する。
吉村公三郎のこの本の文章はとても平明だ。わかりよいと思わせる文章だが決して単調ではない。読み進んでいくうちに謎が解かれてゆくようなスリルも感じさせる。それは映像を扱うものの中でも複雑な映画というものを、まるで魚の骨から身を上手にほぐして食べる手つきで捌いているように思える。後には骨という映画の構造がすっきりと現れ、読者の口の中には具体的な映画の味わいが残る。何度か読み直しをしている本だが、読み直す度に面白さが湧き上がる。個人的には「風俗について」という章が、いつも気にかかる。それは映画に限らず、写真の場合も対象になる具体物に拠ることが多いからである。何を「枠」に入れるか、「枠」には入ったものが何なのかはつまり、風俗と大いに関係があると考えるからだ。最後の章では「俳優と演技」について述べている。これも「シナリオ」と同様、役者の生かし方について具体的に話が進められてゆく。これらの事が吉村公三郎本人が最後に述べているように、映像の演出に特別の「秘法」があるわけではなく、すべて「常識」の問題を少しばかり掘り下げればよいという観点からなされるわけである。
この本に登場する人物で興味深いのは、やはり師匠の島津保次郎新藤兼人滝沢修、脚本家の久坂栄次郎、などがいる。
この本は岩波新書だが、同じ岩波に新藤兼人の、溝口健二について書かれた「ある映画監督」という本もとても面白い。さらにアサヒカメラの編集長でもあった津村秀夫の「溝口健二というおのこ」という本をあわせて読んでも面白い。ここには生き生きとした映像つくりの世界が、生き生きと描かれている。