ウチそと研通信15 −ジュリー−

かなり昔、沢田研二という人を新聞の仕事で撮影した事がある。
毎週ひとりずつ、タレントといわれるひと達を紹介する欄の、よく言えばポートレートを撮影する仕事のひとつであった。流されてゆくような仕事でもあったが、そのときの彼の瑞々しさはひときわで、今でも記憶に新しい。ライターのインタビューの後、20分程その人と向き合って撮影をした。ひどく短い時間のようだが雑誌、新聞の仕事ではごく普通の事で、5分間も無いなどと言うことも珍しくはない。沢田研二がソロ活動を始めてしばらくたった頃のことだ。
先日、NHKFMのスイッチを入れてみるとジュリーの声が聞こえてきた。ラジオから直接話しかけてくるその調子には構えた様子が無く、率直で、時々悪がきのようになったりして、いわば「地」の声を聞く感じがした。締切の迫っている幾つかの原稿が気になりながらも、つい番組を長い間聴いてしまった。彼が還暦を迎えた事をきっかけに、デビューから現在までを振り返って沢田研二自身が話しをするというものであった。原稿を書きつつ、時々、しかし延々と彼の話を聞いていた。
業界の裏話的なところもあり、なるほどネと面白く聴き続けた。いわゆるアイドルから自分で次の世界に進まざるを得なくなった時の沢田研二の話はさらに興味深かった。黒テントでの芝居と歌の経験、ほかの才能との接触の感想など、とてもざわざわと気持の中に入り込んでくる。どの場合でも受身のような形で始まるのだが、決して相手に飲み込まれる事の無いしたたかさは印象的であった。もちろんデビュー当時の京都、東京のジャズ喫茶、そしてウエスタンカーニバルでの出来事など、すでに見知っている事も多かったが、どの時点でも、自分たちの出自がコピーバンドだという明確な意識は頼もしい。タイガース時代の産経ホールでのライブ音源を放送していた。観客の歓声、嬌声にかき消されそうになりながらプレイする、その頃ステージでよく演奏していたストーンズのメドレーの不器用さ、しかし愛情の濃さは、好きなものとしゃにむに一体化したいという気持の何者でもなく、それがひとつの表現と言えなくも無い。間違ってもストーンズのナンバーをカバーするのではなく、コピーを目指しているのだ。結局、夜の十二時過ぎまで番組に付き合ってしまった。
さて、その時のジュリーの撮影である。まずは紙面を埋める一枚の写真が撮れればいいのである。時間は30分の予定が削られて20分になっている。八ッセルブラッドにその頃はやっていたリングライトをつけ、ポラをきってみた。そして残り10分ほどで慌しく撮影を終えた。最後にテストに撮影したポラロイドにサインをお願いしてみたのだが、ジュリーは快くマジックで余白にサインをしてくれたのであった。
彼の姿を写真に収めるのはこれが二度目だった。ライブ盤にもなっている、産経ホールでのコンサートに私もいて、レオタックスというカメラで客席から彼らのステージを撮影している。ジュリーも、広角レンズで撮影した写真のなかにタイガースのひとりとして、小さく写されている。私が写真を本格的に始めるずっと以前の事だ。今年から来年にかけて、還暦の沢田研二が企画しているステージに彼は、「ジュリー祭り」と名づけているようだが、ジュリーも50年近くかけ、放下の域に近づいているような気配でもある。