ウチそと研通信17 −ロトチェンコと北代−

1920年代の途中でアレクサンドル・ロトチェンコが絵画制作を離れ、写真へ向かうことになったのは、それを促したきっかけとして、ライカという性能のいいドイツ製小型カメラが登場したことが大きかったといわれる。多様な光量に対応でき、視点を自在に動かし、スピーディな判断で連続してシャッターを押せるため、その出現は、以前のカメラでは望みにくかった何ごとかを予感させたのだろう。ロトチェンコの写真撮影が本格化する1925年以降、とくに30年代に入ってからの一群のショットをみると、写真を撮る自己のカラダとカメラアイの位置どり、相互の連結のさせ方を様ざまに試し、見る習慣の大胆な組み換えを求めていたのがわかる。上と下からのアングルで世界の光景を切りとる、ロトチェンコのいわゆる短縮遠近法(ラクルス)が盛んに追求されるわけだが、取りも直さずそれは小型カメラが蔵する潜在力をまさぐり、引き出していこうとする一つの挑みであったともいえる。
ところで、身軽で機動性に富み連続してシャッターを押せる35ミリ判カメラを使うようになって画家から写真家へ転じていったアヴァンギャルドを、ロトチェンコ以外にもう一人知っている。北代省三という人。1921年生まれ。南方の戦地から帰還し、敗戦直後の東京で絵画制作をはじめ、ごく初期に岡本太郎から「おまえのは貿易会社のサラリーマンが描くような絵でユニークなのがいい」と変わった褒められ方をした。ギリシャ神話や現代物理学の概念を借りてタイトルとする幾何学的な抽象画を描くかたわら、風によって動く「モビール」オブジェをつくり、1950年代初めには武満徹湯浅譲二といった作曲家や同世代の美術家らとグループ「実験工房」を結成、バレエ「未来のイヴ」他の舞台美術や実験映画の制作にも意欲を注いだ。あつかう素材やメディアを換えつつ、星団のように造形のことばを繰り出したさまは、ロトチェンコともかさなる印象がある。北代は1950年代後半、写真家への転向を自ら宣言するが、それを促したのは35ミリ判カメラによって視点を動かしつつ継起的に撮る経験、そこに新鮮な魅力を覚えたことが重要なきっかけとなっていた。
例えば東京のビル街を様々な高度をとって旋回するようにして、北代はスナップショットを撮りかさね、なめらかな、重力の拘束から解き放たれたような印象を帯びた時空のイメージを捉えた。ロトチェンコの《プーシキノの松》によく似た樹木を下から仰ぎ見るショットも撮ったが、ただし北代の場合、樹木とそれを取り巻く空気の流れを微視的といってもよいアングルで幾様にも撮影し、それらの集積として樹をあらわそうとした。「一枚の総合的肖像写真としてではなく、様ざまな時に様ざまな条件のもとで撮った瞬間的写真の集合として、人間を記録しなさい」とするロトチェンコの有名なテーゼを、北代は軽やかに、異なる地平において実践していたようにも見えるのだ。(さらにいえば1930年代にロトチェンコがスターリン体制下の宣伝媒体で活動するようになることと、北代が60年代の高度経済成長期に産業写真の分野でおもに仕事するようになるというそれぞれの軌跡にも、いささか反復めいた感じがなくもないのである。)
北代を含む戦後日本のアヴァンギャルドたちの営為のうちに、ロシア・アヴァンギャルドと時空を隔てて重なりあい、響きあうものをみることがある。そこのところに興味を惹かれる。