ウチそと研通信31 −浅草で映画を見る−

大山さんがテキストを書き起こしているように、三回目の例会は浅草演芸ホールを楽しむと言う事になった。
観覧後、場所を変え、少し古めかしい喫茶店でお茶を飲みながらの感想交換は前回同様、面白い時間である。今回は寄席を見ることを体験したけれど、浅草はほかにも大衆演劇、そして六区の映画街はかつて多くの人を集めて賑わう場所であった。戦後間もなくに撮影された写真には、映画街の通りに身動きできないほどの人が溢れているものがある。
私も高校時代に浅草でよく映画を観ている。すでに六区の人気は遠い時代のものとなってはいたが、大勝館、電気館といった小屋もその姿をかろうじて姿を残している時期である。日比谷の映画街と違う空気が館内の闇にあって、本編上映前の予告編、天麩羅屋の広告スライドを菓子パンなどを食べながら見るのは、幼い頃の近所の映画館に近いものであった。日比谷の興行街がどちらかというとハレの気分に満ちているとすれば、浅草はどうしょうもなく地の気分であった。しかし、普段の眠りの中で見る夢が心の疲れを何がしか回復させるように、六区の映画館の闇の中で観る3本立ての映画は、その時代の自分に釣り合いを与えてくれていたように思える。大島渚の「帰ってきたヨッパライ」の封切りは浅草で観ている。併映は「進め!ジャガーズ敵前上陸」であった。
浅草の映画館との付き合いはその後社会に出て働きだす頃には遠のき、再び頻繁に訪ねだしたのは1985年前後である。それも映画を観に行くのではなく、映画館を撮影する目的で通いだしたのである。その頃、バブルの時代であり、東京全体が熱に浮かれたように建築物を大規模に更新されてゆく流れにあった。浅草の六区も例外ではなく、古い映画館を取壊し別な目的のビルに建て直すことが始められたのである。私は六区を中心にした浅草の町並みを写真に収めることを考え、8×10のカメラを主体にして記録し始めた。今はない映画館の姿をぎりぎりの時期に撮影できた事は有難いことではあった。まだ残されていた幾つかの戦前からの古い映画館、たとえば東京クラブ、常盤座、その頃は浅草松竹という名前になっていた金龍館などの外観、内部を撮影する作業は半年以上かかったが、建物が姿を消す時間との競争でもある。或る日東京クラブのガラガラの二階席から上映中の舞台を撮影したことがある。映画が終わり、場内が明るくなった時、ふと背後にひと気を感じて振り向いてみた。ガラ空きと思っていた二階席の壁沿いに少なくない人数の男たちがじっとこちらを見ていたのである。一瞬「浅草紅団」の世界、江戸川乱歩の浅草の世界が垣間見えたように感じられたのであった。
せんだって例会の下見を兼ねて三人のメンバーが集まり、久し振りに浅草の映画館で大映東映東宝と入り混じる3本立てを観た。どれもプログラムピクチャーの面白さを満喫させてくれる作品で、今では味わえない映画の楽しさを想いださせてくれたのである。もぎりの女性に次週の番組を尋ねると、わざわざ映写技師らしき人を呼び出してくれた。三十代、あるいは四十代前半に見える映写技師はちょっとうれしそうに、「東京流れ者」と我々に告げてくれたのである。