ウチそと研通信37 −雨の日−

土曜の雨の午後、始発駅から乗り込んだ東急大井町線の車内は混むでもなくすくでもない、見知らぬ乗客どうしお互いの存在をそれとなく余裕をもって感知しあえるような、人と人の間隔が程のいい状態だった。平均年齢は若く、周囲でもっとも年長なのはひょっとすると自分だったかもしれないと今になって思い至る。真向かいのシート、母親をはさんで小学生らしい兄弟二人がお菓子のタマゴボーロを一粒づつ掌にとり、いっせいのせの合図で口の中へほうりこむ。肩をゆらし、首をふり、どっちが先に噛まずに舌先で溶かしきるかを競っている。すぐ横の扉の前、女子中学生らしい4人組がいて、遙々遠いオホーツク海の話をしている。一人が海中生物クリオネの捕食シーンに衝撃を受けたことをいい、ふいに脈絡が飛んで(…さてはクリオネ映像のBGMのつもりか)ナウシカの歌を口ずさみだす子もいた。別の角度に耳かたむけると、就学前のかわいらしい男の子が母親に質問していた、「どうして大井町線なのに終点は二子玉川なの?」 こう問われ、どう答えよう。考えだすと意外にやっかいで、「なぜ二子玉川線ではなく大井町線というのか」からまず説明しなければならないだろう。だが、そんなことは考えたこともない。乗っている電車は先ほど雨の大井町駅を出たばかりだ。
この私鉄には週二回乗るが、車窓の外の景色を眺めることがふだん少なく、沿線にどんな世界が展開するかを脳内に再生することがあまりできない。停車駅それぞれの印象を思い浮かべるのはある程度できるのに、中途の印象がずいぶんあいまいだ。二、三の駅でしか今まで乗降りしたことがなく、駅間の街を歩いていないことも印象の溜まらない理由になっているかもしれない。雨あしはまだ弱まりそうになかった。大岡山、自由が丘を過ぎるうち、顔ぶれも入れ替わり、周囲に大人の数が増した。子どもたちだと、車中でこちらが視線をなんとなく向けていても(凝視するわけでなく、あくまでもそれとなくだが)、おおむねそれを悪くとられないように感ずる。しかし、大人だと、こちらが関心を動かされ視線を向かわせると、露骨に不快感を顕わしてきたりすることもままあるので、自ずと用心してしまうのだろうか。子どもたちの姿はかなり明瞭に浮かんでくるのに、同乗していたはずの大人たちの像がほとんど想起できない。ただ漠然と、斜め向こうのシートにいた初老の女性(顔は浮かばない)を見たことだけ、その人がこちらの存在を無言でキャッチしているように思えたことだけ、かすかに感触が残っているばかりだ。つい昨日の午後の場面であるのに。
上野毛駅で降りる。階段をのぼる。列をなして改札に向かうなか、数メートル先のところに知っている人の背中があった。傘を片手に、同じ行き先に向かって進むその人が、電車を降りる際、こちらの存在を目のはじで感知していたかもしれないという気がしないでもない。ずんずんと先を歩んでいく背中に、後ろから見ているこちらへの沈黙のことばが語られているように感じた。追いついて声を掛ける? いや、ここでこちらが声を掛けるほど、まだよく知り合っている間柄ともいえないことを、われわれは心得ていて、このまま沈黙のことばの交換を置き残すにとどめようとお互いに了解しあっていたのではないだろうか。そういう背中に感じられた。改札を出て傘をひろげるまにその姿を見失った。
駅に近い、いつも入る喫茶店で一休みしよう。コーヒーを注文、奥の席で法事帰りらしい身なりの老紳士と老婦人がひさびさに再会したのだろうか、歓びを浮かべて四方山話に興じていた。時折、中国の古典文学の話題がまじってくるように聞こえる。椅子に若干の角度をつけて横向きに腰掛け、壁を背もたれがわりにしている男性のほうは、むかし惚れていた。向かいの席に正位置で座り、話題のイニシアチヴをとる女性のほうは、さばさばした感じ。あくまでも数メートル離れた地点からの、ちょっとした観察で得た印象にすぎないが、きっとそうだろうと信じられてならない。二人の姿は、ここに書いたことでしばらく忘れないでいられるだろう。