ウチそと研通信39 −eyewitness−

(このところ通信に書きたい話題は多々あるのですが、慌ただしくしていて書く時間を逸し続けています。今回は数年前の旧稿を掲載させてください。大辻清司ポートフォリオ「eyewitness」東京パブリッシングハウス発行をつくったとき書いた挿み込みの記事です。)

写真家大辻清司には、いくつかの顔がある。金属や有機物のオブジェを撮った作品《いたましき物体》(1949年)から制作歴をスタートした大辻は、モノの存在の不思議さに惹かれ、モノと静かに対峙する視線を研ぎ澄ましていった写真家である。また彼は、写真というメディアの本質を思索し、一連の重要な批評的テキスト(「大辻清司実験室」1975年ほか)を書いたことでもよく知られている。さらに1960年代以降、複数の大学、デザインスクールで写真・造形教育に携わり、多くの後進を育てた実績も見落とすことはできない。
クリエイター、批評家、教育者としての顔を持つ大辻はまた、写真活動のごく初期から、美術、音楽、ダンス、その他の周辺領域を含めた、幅広い分野の前衛アーティストたちと交流し、さまざまな表現の生まれる場面に立ち会って、カメラによる観察の経験をかさねていた。表現することの意味、現代におけるそれらの成立条件や新たな可能性といったことに対し、彼は持続的に関心を注いだのである。このポートフォリオでは、同時代アートの目撃/記録者としての大辻のいとなみに焦点を当てている。彼のカメラアイがとらえたアート・シーンの膨大な写真アーカイヴの中から、とくに1950年代〜70年代初めにかけて東京やその周辺地で撮られた、幾組みかのアーティストたちの活動をめぐるショットをここに選びだした。

収録した写真は、ほぼ3つのグループに分けることができる。
まず一つは、大辻自身もメンバーに参加していたインターメディアのアーティスト集団・実験工房の活動をめぐる写真群。1951年、読売新聞社主催のピカソ展を記念するイヴェントとして、音楽と造形の分野の若いアーティストたちが協力しあい、ピカソの1枚の絵を題材としたオリジナル・バレエ「生きる悦び」が上演された(シナリオ:秋山邦晴、作曲:武満徹・鈴木博義、美術:北代省三山口勝弘、照明:今井直次)。これが実験工房の旗揚げとなった。彼らは1950年代、視聴覚の綜合による新たな芸術領域の開拓をめざし、バレエ上演会、現代音楽演奏会、画廊での展示、写真スライドとテープ音の同調装置(オートスライド)による上映作品や実験的な映画の制作など、さまざまな共同作業の試みをくり広げていく。大辻は1953年、メンバーに加わった。
1955年、実験工房は2つの比較的大がかりなパフォーミング・アーツの公演に参画した。「バレエ実験劇場」と「円形劇場形式による創作劇の夕」。大辻はそれら双方を、舞台美術模型やリハーサルの段階から本番まで、かなりのカット数を費やして記録しようとしている。本ポートフォリオ実験工房に関わる写真のグループでは、この2つの上演の模様を写したショットを中心にセレクションをおこなった。
「バレエ実験劇場」(松尾明美バレエ団との共同発表)では、モール・ガラスの分光作用と照明の明滅によって織りなされるスペースで、男女の抽象的な群舞が展開する《イルミナシオン》、白い半透明のマスクをかぶった登場人物たちがパントマイム風の演技によって踊る《乞食王子》、メカニックな構造の巨大なオブジェを舞台に出現させ、現実音を素材としたミュージック・コンクレートの音響とともに「人間と物体との格闘の世界」(瀧口修造の評言)が描かれたという《未来のイヴ》の3作品が上演された。
一方の「円形劇場形式による創作劇の夕」は演出家・武智鉄二が企画したもので、もともと室内楽の伴奏による声楽の曲として作られていたシェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》(ベルギーの表現派詩人アルベール・ジローの原詩による)を、舞台上の能・狂言役者の動きと組み合わせ、マイムの形式で劇化するという、きわめてユニークな試みがおこなわれていた(実験工房のメンバーは訳詩、衣装、美術、照明等を担当)。またこの時には、あわせて三島由紀夫・作の《現代能・綾の鼓》が、舞台上での室内楽湯浅譲二作曲)の演奏と絡めたかたちで上演された。

2つめのグループは、1950年代後半から60年代中頃にかけて、さまざまなアーティストたちと対面し、彼らの風貌やそれぞれの表現が生まれる現場をスナップした写真群。これらの中には、大辻が写真活動を始めた当初から交流をもち、精神的に深い影響を受けていた2人の先行者、美術家・斉藤義重、詩人批評家・瀧口修造がそろって冬の海岸に腰をおろしているショットがある。また、戦後日本の前衛アート・シーンにおいて破格に大きな足跡を残した岡本太郎勅使河原蒼風、それぞれの精力的な活動ぶりをとらえたショットも含まれる。さらに、瀧口と対話する来日中のフランス人美術批評家タピエ、および岡本や勅使河原のアトリエで制作実演中の画家マチウを写したショットからは、アンフォルメル絵画の流行が日本に押し寄せてきた当時の活きた状況が窺えるだろう。
1959年、近代舞踊派を主宰する津田信敏の稽古場で撮られた一連の写真には、「暗黒舞踏」と呼ばれる前衛ダンスがまさに誕生しようとしている場面を見ることができる。三島由紀夫の小説から題名を借りた土方巽・振付「禁色」や、若松美喜・振付「黒点」の稽古風景、そして、取材に同行していた作家三島由紀夫の出題(「溶ける時計」「マルキ・ド・サド」)によってその場で即興的に演じられたダンスの模様。この時に受けた印象について、三島は次のように述べた。「…われわれを愕かすのは、肉体の突然の動き、突然の叫び声などが、われわれの日常的な期待にほとんど答えず、われわれの目的意識にたえず精妙に背くからである。…これらの写真からも、ほぼ想像がつくと思うが、一定の心理的法則が、肉体の奇怪な衝動的な動きによって、一挙に崩壊してしまうその断絶感は、古典的な技法を残した舞踊にはたえて見られぬものであろう。その断絶感はほとんど小気味がいい。」(「現代の夢魔」『藝術新潮』1959年9月号)
実験工房出身の作曲家・武満徹と大辻は、長野県御代田の山荘村(普賢山落)ですごす夏のあいだの隣人同士として長く交流を続けた。武満は1963年より76年にかけて、ピアノとオーケストラのための2部6楽章からなる大きな作品《アーク(弧)》の作曲をすすめていたが、66年の段階で完成していた2つの楽章のレコーディングがおこなわれることになる(LP「武満徹の世界」所収)。この時、依頼されて大辻が撮ったオーケストラ・リハーサルの場面や、モニター室での武満のショットには、この写真家らしい距離の保ち方、さりげない慎しみとユーモアのセンスがあらわれているようだ。

3つめのグループに分類したのは、1960年代末と70年代初め、どちらも内外から多数のアーティストが参加した2つの催しを記録した写真群である。
1969年2月、代々木国立競技場・第2体育館で3日間にわたっておこなわれた「クロストーク/インターメディア」(企画・構成:秋山邦晴、ロジャー・レイノルズ、湯浅譲二)では、奥山重之助・考案による大がかりな14チャンネル音像移動システムを設けたスペースにおいて、電子音楽と映像、ダンス、光などの要素を含む実験的なライヴ・パフォーマンス全14作品が上演された。連日3千人を越える観衆を集めたという会場内を、大辻は気ままに歩きまわって撮影したらしい。上演作のうち、大辻のカメラアイをとくに惹きつけたのは、ホルンに特殊な電子装置をとりつけ、生の音と電子的に変調された音の即興的な二重奏を多様に追求したゴードン・ムンマ《ホーン・パイプ》や、青や赤色の光を点滅する眼鏡をかけた複数の男女のパフォーマンスとともに電子音や映像が進行したというロバート・アシュレー《朝のあのこと》、ガス・マスクを着けた俳優の演説とテープ音楽、映画が交錯するサルバトーレ・マルティラーノ《LのG.A》、巨大スクリーンに映じる白塗りの役者(麿赤児)の顔、スライドで次々に投写される文字、楽器アンサンブルの演奏を即時的に電子変調させた音響といった要素をとり混ぜ、サミュエル・ベケット原作の詩的なドラマを構成しようとしたロジャー・レイノルズ《ピング》等だった。
電子テクノロジーをもちいた「クロストーク/インターメディア」の光景とはまったく対照的に、翌1970年5月、東京都美術館ではじまった第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」では、美術館の床や壁の上に、石ころ、針金、紙、木、石炭殻、鉛、ガラス等々がさまざまに出現した。この展覧会は1960年代後半以降のミニマル・アート、アルテ・ポーヴェラコンセプチュアル・アート、もの派といった内外の新しい美術の動きに通底するものを窺う批評的視点から、単独コミッショナーの美術批評家・中原祐介によって構想されたものだった。中原は次のように説いた。「物質が造型の手段という役割りからはみだし、そのとらえがたい存在を強調するようになった…」。「たとえば、物質は造型の手段としてはいりこんでくるのではなく、実際の状態とか時間的な過程がそのまま提示されるのである。」「われわれは物質にたいする特権的な主人公ではなく、人間と物質は対等であるという態度が押しだされるようになった。」「現在、ある美術家たちは、美術をこうした人間と物質の果てしない矛盾を含んだ関係そのものにしようとしているように思う。ある場合、それは関係の『強調』として、ある場合には関係の『体験』としてあらわれる。」(同展カタログより)
作品搬入の作業中の状況、そして展示がオープニングをむかえた後まで、大辻は数度にわたりこの展覧会の会場を歩き、人とモノがそこに現われ、いろいろな相互関係を生じていくさまを撮ることにのめり込んでいる。「人間と物質」展での一群のすぐれたスナップショットは、この時期の大辻の代表作と考えられる。モノと場所の関係を探ろうとするその眼差しは、70年代以降の彼のさまざまな撮影でさらに磨かれていくことになるのだ。