ウチそと研通信41

マヤ・デレンの映画を久しぶりに観る。
昨年、とあるところで私よりかなり年下と思われる女性の写真家と話をする機会があった。初対面の彼女の作品についてすこし感想を述べる時、ふと思いついたのは、マヤ・デレンという人の映画の感触だった。マヤ・デレンの映画を40年以上前に一度観ている。その思い付きをそのまま話してみたところ、その年若の人はマヤ・デレンの映画を知っているというので、こちらが逆に驚かされたような気持になってしまった。
じつのところ、マヤ・デレンの具体的な画面の映像をはっきりと覚えていたわけでもなく、あいまいな感触の記憶を女性写真家の仕事に重ね合わせただけなのだが、真昼に夢を見るような官能性を作り上げてみたいという部分で、映画の漠然とした記憶とその人の写真が繋がって感じたのだろう。私自身、マヤ・デレンのことを想いだしたのも久しぶりで、「午後の網目」(Meshes of the Afternoon)という彼女の映画が、第二次世界大戦の最中に作られていたこともそのとき同時に意味もなく想いだした事を覚えている。写真家の感触と重ね合わせたのもこの映画である。
今年に入り、アニメーションの作家からアニメの教科書、ノーマン・マクラレンやレン・ライの作品がYou Tubeにアップされていることを教えられた。思いもかけなかったことが世の中では始まっているらしい。どのようなところに行き着くのかは解らないが、今回はYou Tubeマヤ・デレンを検索すると、あっさり「午後の網目」に行き着いてしまった。しかも、吉沢元治氏の音が添えられている。本来は吉沢氏の音にマヤ・デレンの映像が添えられているといったほうが良いかもしれない。さらに検索を進めていくと、ほぼ18分に達する「午後の網目」の映像を見ることができ、当時観ているはずなのに記憶が飛んでしまっている「陸地で」(At Land)の映像も、そして戦後の彼女の作品まで目を通す事になってしまった。
「午後の網目」も「陸地で」も金坂健二氏が簡単に要約しているように、かつてヨーロッパの前衛映画と呼ばれていたもののある部分を引き継いでいる作品といってもいいだろう。今回、改めて観てみると、マン・レイの何本かの映画、ブニュエルの映画、コクトーの映画と血が濃く繋がっていることに誰もが気がつくことだろうと思った。しかし、彼女自身が被写体として登場するこの二つの映画は、彼らの映画と少し遠い距離にあるようにも感じられた。古典的なデペイズマンの手法や逆回し、コマ撮りなどのアルカイックな映画技法も楽しめるが、登場するマヤ・デレンのナルシィスティックな雰囲気、そして肉体の動きの凄みがこの2本の映画の核心であるとも思えたからだ。アイデアだけでなく、何らかの形で彼女の官能的なものが残されていることで、彼女の映画の時間に溶け込んでゆく面白さが生じるのではないだろうか。
戦後のマヤ・デレンの映画を同じYou Tubeで見ることができることは既に述べているが、人の動き、運動をカメラにとらえているいくつかの作品が目立っている。「陸地で」に続く「Ritual in transfigured time」から様式的な肉体の動きがさらに抽出され、マヤ・デレンの関心が身体的なものが時間と共に流れ出すことに強く向かいだしていくように思われる。1947年から1953年にかけて撮影された、ハイチのフィルムもブードーのダンスが妙に印象的だ。他にも幾つものことを興味深く思ったが、ながらく心の底に眠っていたマヤ・デレンの映画を、今の状態で再び見る事ができたのは、もつれた糸がほぐれるようにも感じられる。