ウチそと研通信42 −博物館で写真を撮ること−

 4月の写真展「古いひかり」に続いて、7月、8月の2ヶ月にわたり個展を開く事になった。
 今回は、私が折をみて撮り続けてきた、博物館や動物園、植物園の写真を展示することにしている。撮影の対象としては、これまで多くの人々が撮影をし発表もしているものなので、私もそれに倣っているということになる。誰しも博物館などのような囲われた特殊な空間が気になり、カメラを向けたくなるのだろうと思う。
 生きているものを原則的に展示する動植物園と、標本や模型などの展示を主とする博物館とは同じものとはいえないが、人間の考え方による世界の縮図を具体化したものである点ではとても共通している。「見える記憶」あるいは「見える世界観」の展示空間ということが言える。かつてヨーロッパの君主や貴族と呼ばれる人物のなかには、その権力と財力を使って不思議な標本や珍奇な動植物のコレクションを収蔵、展示し、自分の趣味や世界観の反映とした事例が数多くあるが、現在の博物館、動植物園はそれらが系統だてられ発達したものと考えてもいいだろう。人間による博物のコレクションは人間にとってかなり根の深い欲望であり、衝動でもある。そうした小さな例はいまでも身の回りにふんだんに見出す事ができる。写真を撮るというのもほとんど同じ事であるかもしれない。
 人間が持っているそのようなコレクション・コンプレックスに加えて、私が博物館や動植物園の空間に惹かれる理由のひとつに、そこに日常の空間とは異なる奇妙な時空の圧縮感、屈折感を覚えるということがある。とくに開設されてから十分に時間の経った空間では、その密度がさらに高まる。以前に読んで印象深かった、「廃墟には複数の時間や空間が流れている。」という伊藤俊治氏の文章の一節を「廃墟」を「博物館」に置き換えると、そのまま私が感じる博物館などのことを言い表しているように思える。さらに伊藤氏が続けて、パリ市植物園内の「・・長い間放置され、廃虚化してしまった動物ギャラリーに集められた百万体以上の動物の剥製の群れを写しとめた・・」ピエール・ブランジェ撮影の「方舟の旅人たち」という魅惑的な写真集に言及されると、これまで私が博物館や動植物園で思うことのほぼ全てが言い尽くされているようにも感じられてしまう。(伊藤俊治著 「20世紀イメージ考古学」より)
 また実際に、私たちが博物館や動植物園を訪れて感じる空間感覚には、当たり前ながらヒトそれぞれ固有な世界が成立するとかんがえられる。普遍と繋がり、そして自分自身が想いを膨らませ、その果てをイメージするのはヒトそれぞれ同じようでもあり、また誰もが自分の固有な鏡に自分を照らし出している事でもある。多くの人々が博物館、動植物園を繰り返し飽きずに写真のテーマとしてきた所以であろう。渡辺兼人氏の温室、林隆喜氏の動物園、杉本博司氏の博物館ジオラマなど、幾つもの写真の群れが思い浮かんでくる。コレクション展示の空間からそれぞれ、自分の水路を導き出した作品群である。集められた写真は誰でも見ることのできる同じ眺めであり、しかし撮影者の視覚というフィルターを通過した眺めでもある。あらかじめアレンジされているコレクション展示の空間をさらに再構成する試みとも言える。そしてそれが時として、他者の体を通したきわめて面白い眺めとも感じられる。ともあれ、博物館や動植物園の空間に佇むこと、そしてその場所の時空の折れ曲がりを写真で定着してみたいという気持が私の場合、いつも心の奥にある。
 さらに写真だけでなく、映画でもコレクションの空間が映し出されると、ストーリーとは別に、そのコレクションの空間に身をおいてしまうことがある。私の個人的な嗜好かもしれないが、作り手の関心も意外に同じところにあるような気がしなくも無い。ジャン・ルノアールの「ゲームの規則」で見られた時計だらけの広間、ウイリアム・ワイラーが監督をした文字通り「コレクター」の蝶のコレクション、そしてアラン・レネ監督の図書館という、本のコレクション空間そのものをテーマにしてしまった「世界の全ての記憶」などと言った、記憶のなかの興味深い映像の世界にもそのまま想いが至る。

飯田鉄写真展 「noraknis」−博物誌に寄せてー
長野県小諸市 サロン・ド・ヴェール http://vert07.exblog.jp/
2009年7月5日―8月30日