ウチそと研通信76 ― 記憶と保存 ―

過去の出来事とまったく同じことが将来に繰り返されることはないのですが、日常のたいていの出来事は「また今度、会いましょう」的に、すぐにまた出会えるような気持でいて安心していました。が、今となってはどんな些細な出来事も一度きりのもので二度目はないのだと、なんだか年寄くさい気持ちにとりつかれています。

災害の報道が一段落した今、以前とほとんど変わらない時間が毎週、くり返し切れ目なく続いていくように錯覚しそうですが、窓の外に目をやれば水晶体の画角が何となく少し変ったような感じがします。有名な作品をたくさん集めた大きな展覧会も、以前だったら普通に楽しめたのに、今はどこか味気なく、物足りなさを感じてしまいます。

先日、ウチそと研のメンバーである飯田さんの展覧会がありました。ドイツ製の小さな6×6判カメラで撮影した写真群でした。そして同じくメンバーである大日方さんとのトークショーの中で、今回の写真は「自分の中にある情動にゆだねたのだ」という言葉があり、それがとても印象に残りました。

泥にまみれたアルバムや写真が丁寧に洗浄され、持ち主を探すために避難所に展示されている様子をニュース映像で見ました。その一方、ある施設では災害時のスプリンクラーの作動で、パソコンに大量に蓄積されていたデータベースが一瞬で消えてしまったという話を聞きました。紙焼きとデジタルデータ、どちらが長持ちするのか今のところはわかりませんが、日本は人の手から人の手へ文化財が伝わってゆく「伝世古」の国ですから、紙焼きの方が長く残るかもしれません。

先日観た映画『100,000年後の安全』は、フィンランドの高レベル放射性廃棄物の最終処分場オンカロについてのドキュメンタリーですが、その中で10万年後の人類(あるいは別の生命体)にどうやってメッセージを残し伝えるかという話が出てきます。半減期の話は人間の時間軸ではどうしようもありません。

今回の災害においても、地域のアイデンティティーとして、その地域を象徴する有形無形の文化財、地域の記憶をどう保存し、後世へ伝えるかという話題が語られはじめました。これを機に、歴史、文化の記憶装置としてのミュージアム、「ハコモノ」の価値が見直されればよいと思います。

しかし、そうした人に共感される、他人と共有できる記憶や記録よりも、他人に理解されないがために自分の外に出てゆかない、自分とともに、場合によっては自分よりもずっと早く失われてしまうかもしれない、その時々の単なる偶然やその場での思いつき、言葉にならない感情の動きによって生じた、取るに足らないごく私的なイメージの方が自分にとっては大事なのではないかと思うようになりました。

歳を重ねてだんだんと記憶があいまいになり、同じ時を過ごした隣人とも物語を共有できなくなってしまっても、それが「誰のための物語か」を思えば、少々頬をひきつらせても、うなずいて話を聞くことが良いのではないかと思うのです。