ウチそと研通信113 −写真の見え方、あるいは写真の離人症−

今年7月、10月と神田の二つの会場でグループ展に参加した。どちらも5人の同じメンバーで、神田で撮影した写真を神田で並べて見てもらうという企画である。これまでも世田谷美術館での毎回の「写真の地層展」など、グループ展に参加することは珍しくないのだが、ご当地展という形でグループ展に参加したのは初めてだと記憶している。お誘いいただいた中藤毅彦さん初め、メンバーそれぞれスタイルの違う写真なのは当然で、同じエリアを人それぞれどう括ってみたか、その違いがかなり面白いものだった。そしてほぼ同じ展示内容を違う空間で、しかもあまり時間を置かずに2回体験することで印象の刷り込まれの度合いが強く、いつしかじんわりと自分の写真のことも身に染みてくる。同じテーマで、他のスタイルの写真と併置された自分の写真としばし向かい合うというのもなかなか得難い機会だ。いままでのグループ展とは違う有意義な経験をさせてもらったと思う。
私が展示した写真は30年から40年近く以前の神田で撮影したもので、同時に展示されていた田中長徳さんの写真よりやや後の時代だが、それでもほとんどが四半世紀は昔の神田の画像である。個人的にはともかく神田の昔の時間がクロップされている写真と見做されるだろう。自分でもそう考えるのだが、そうした解釈とは別に、何度か見直しているうちに神田の昔の姿という意味合いが、自分にとって時間や記憶の点であまり深く意識されなくなっていることに気づき、どうやら自分の感じられ方がこれまでとは異なるところに移行してきているように思われた。神田の時間を遡った画像には違いないのだが、それだけではない違う意味合いがふくらんで見えてくる。自身の作業の中では記録や記憶などと、写真との関係にとらわれるところがこれまでは多かったけれど、言葉は変だが、これまでの写真からの「離人症」とでもいうようなこのような自分の感触は、実は新しく登場する数多くの他の人達の写真を見ていても、あるいは何度も見てきたような写真にも同じように思うときが多くなっていることにも気づき出している。西暦2千年前後を境に、時間であるとか、空間であるとか、多分現在では世界の成り立ちや人々の意識、そして自分の心持が大きく変化してきたことと関係があるのだろう。
そうしたわけで今回のグループ展でも他の写真との距離などではなく、興味は写真と自分との距離ということにどうやら帰結することに、自分が遅まきながら気づき始めだしたというところかもしれない。このことは個人的な写真撮影や編集の作業でもいささか 大きな変化が導き出すように思われる。とりあえず歴史が時間感覚ではなくなるということかもしれない。そう思ってあらためて世間に拡がる目の前の数多の写真を眺めてみると、これまでの見え方と大きく違う感触が徐々に拡がりだしてくる。多分そう思わなくても、どうしようもなくそのように今の写真が見えてきているような気がしてならない。戻る振り子のように、あるいは必要に応じて、時間の距離ということもかならずいつか意識することになるだろうが、現在ではデジタルやフイルムといった画像の生成方法の違いはもちろん、リニアな時間軸というものがあまり重い意味を成さないような世界が、おおかたの画像のエリアでは生じているような感覚もあったりする。見ているものが古くもなく、新しくもなく、というよりは問わないというところからスタートして、体験する人にとって「まず」、「今生きて、そして見ているということでしかない」という画像の体験である。神田の写真展示で写真についてこんなことをすこし考えていた。