ウチそと研通信119 −キツネと自然観−

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(内山節/講談社現代新書)を読む。
キツネと言えば10数年前、出張で出かけた北海道の車窓からキタキツネを見た。野生のキツネを見たのはその1回だけだ。また、自分とキツネとの関係でいえば、一昨年に死んだ父親から、むかし山で迷った先祖の誰かがキツネに助けられたという話を聞いたことがある。だからキツネを大事にしろという話だったが、それが何世代前の先祖のことなのか今はもう確かめられない。
内山氏によれば「キツネにだまされた」という話は1965年を境に無くなったという。東京オリンピックの翌年、私が生まれた年だ。そして化かすキツネがいなくなるとともに、農山村における伝統的な自然観も失われていったという。この本を読むきっかけになった『科学と人間』(佐藤文隆青土社)によれば、日本人がよく使う「自然を愛する」という表現は、明治24年の小学校教則大綱の第8条「理科ハ通常ノ天然及現象ノ観察ヲ精密ニシ・・・(略)・・・天然物ヲ愛スルノ心ヲ養ウヲ以テ要旨トス」にさかのぼることができるという。
こうした日本的な自然観は、前述の内山氏は「草木それ自身が仏性をもち・・・(略)・・・さらに石や岩も成仏を約束されている」天台宗の本覚(ほんがく)思想、草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)に通ずるのだという。
日本の動物園特有のものとして動物慰霊碑がある。上野動物園の慰霊祭を見たことがあるが、イベント的な要素もあるものの、担当した動物への愛情のこもった弔辞を読む飼育員の真摯な姿が印象的だった。学生時代、学園祭のころに行なわれる農学部の慰霊祭に私も参加した。学内の片隅にある小さな社で神主の祈祷が行なわれ、教授を先頭に白衣を着た学生たちが拝礼する。こうした動物の霊を慰める行為は日本独特のもので、海外では見られないという。キリスト教圏にはペットセメタリーなどもあるが、その墓にはけっして十字架は用いられず、ペットは人間とは同列には扱われないそうだ。上野といえば不忍池の弁天堂にはフグをはじめとするさまざまな供養碑があるのも面白い。
伝統的な自然観と新しい都市的な自然観は、農山漁村部と都市部とはっきり二分されることはなく、グラデーションの中で存在する。たとえば、ある動物や植物を保護する活動などでは、それに関わる行政や市民、研究者、それぞれの立場や考え方によって、動植物や環境を観光資源と考えるのか、あるいは心のよりどころとするのか、または研究対象として扱うのかなど、意味が変わってくる。それらが対立とまではゆかなくとも、ズレを生じさせ、運動を続けるうえで解決すべき課題となっている。
またもっと身近な話では、町おこしなどでB級グルメが取り上げられるが、それらはオリジナルというよりバリエーションであり、その土地の自然であるとか、歴史とはあまり関係がなさそうに思え、これも「都市化」の浸透によるものかもしれない。また最近では、里山保全のために、増えすぎたシカを積極的に捕獲して食べる活動(猪鹿庁http://inoshika.jp/)も聞かれるようになって、一時期の保護一辺倒とはだいぶ意識が変わってきているようだ。さらに普段の生活の中では、動物本来の生理とは乖離していくペット産業と、おそらく我が国の歴史の中で最大の肉食ブーム。「可愛い」と「美味しい」という一見、正反対のようにも思えるが、どちらも「人が消費する」という意味では対立するものではないのかもしれない。そしてつい先日話題になったクジラ漁(調査捕鯨?)の問題など、西洋的な捉え方をする日本人も多くいて、われわれの自然観は変化を続けている。