ウチそと研通信163 ー上海の博物館などー

少し前のことになるが、5月の連休明けに上海を訪れる機会があった。3泊という短い期間であったが新しめの博物館二つを見ることができた。
一つめは「上海自然博物館」で、もともとは外灘の近くに1956年開館したものだが、2015年に上海市内の中心近くの静安彫塑公園内にリニューアルオープンしている。地下鉄13号線の駅(自然博物館駅)と直結しており、市内からのアクセスもよい。建物は地下2階から地上2階、延床面積が45,257平方メートルで、上野の国立科学博物館33,180平方メートルの約1.3倍ある。駆け足ではあるが半日で見るには結構な広さだった。地上から外観を見るだけでは気づかなかったが、アンモナイト様の巻き貝の形をしている。入ってまず目に付くのは大型生物の模型やはく製で、とにかく数が多い。そしてそれらは、古生物も原生生物も、海洋も陸上も一緒くたに展示してあり、マンモスの上にクジラ、その横に首長竜といった感じで、見た目、迫力をを重視ししているとの印象を受けた。さらに他の博物館では見たことがないのが、体の一部分、骨や内蔵が見えるティラノサウルスの実物大模型で、子どもの頃にみた怪獣図鑑を思い出した。これもリアルさよりも面白さを重視しているように思える。展示技術そのものについては、骨格標本の指が不自然に曲がっていたり、表情の不自然なはく製、隠し忘れたのか、むき出しになった演出用スピーカーのコードなど、仕上げが雑な部分も何カ所かあったが、全体の印象として日本の博物館との差をあまり感じることはなかった。
次に見たのは「上海市歴史博物館」で、人民広場に隣接している。建物は観光サイトの情報によれば1934年にできた競馬場のクラブハウスだったという。それを改装し、上海図書館や上海美術館として使用されていたが、今年3月に歴史博物館としてリニューアルオープンした。最上階にはカフェがあるのだが、内装デザインといい、価格といい、とてもおしゃれだと思うのだが、なんと言えばよいのか中国らしさがないというのか、ここが上海なのか、横浜あるいは東京なのかわからなくなる。肝心の博物館の展示の方は、上海の歴史を、実物資料だけでなく、模型や映像、タッチパネルなど最近の展示手法がバランスよく取り入れられていて、わかりやすく紹介されていた。グラフィックや映像のデザイン、展示照明や演出照明などもこなれていて、とても良い展示だった。先日の展示学会で聞いたのだが、2015年に中国にも展示学会ができたそうで、これからますます新しい博物館が増えていくのだろう。
一方、我が国の博物館はどうか。予算削減、人手不足など、既存館は慢性的な問題を抱えている。その上、本来味方であるはずの国や行政からの理解も乏しく肩身が狭い。日本の博物館の今後についてあれこれ考えていた矢先、西日本で大規模な水害があった。報道でもあるように浸水地域はすでにハザードマップに記載されていた地域であった。テレビニュースの被災住民のインタビューでは、生まれて初めてのことだとか、これまで聞いたことがないといった発言が聞かれるが、地域の博物館や資料館には、我々の人生一回分、100年に満たない時間では経験、得ることのできない情報、知恵が蓄積されている。これらを住民同士で共有、活用することができれば、被害も少なくなったのではないかと考えてしまう。集客数ばかりで評価するのではなく、地域のシンクタンクとしての役割も、地域博物館本来のあるべき姿であると再評価してほしい。

ウチそと研通信162―関口正夫、ミウラカズト連続展に寄せて―

関口正夫は、1946年、東京田端に生れた。桑沢デザイン研究所写真研究科に学び、卒業後、同級の牛腸茂雄と写真集『日々』を刊行する。するどい刃物の切れ味をおもわせるスナップショットで1960年代後半の社会的風景をつづる『日々』の関口のパートでは、沈着に息づかいを殺した静けさが持続する中、処々で、無音の乾いた哄笑が湧きおこるのに出あうだろう。スコーンと突き抜けた、あたかも畳のオモテウラをひっくり返すような、開放感ある笑い。次の頁にすすめば、なんにもなかったのごとくポーカーフェイスのままなのだが、本の扉を閉じるとき、大いなる笑いの残響につつまれている――。関口の『日々』には、写真集として稀有なそんな尾をひく味わいがあり、例えばバスター・キートンの体技によるスラップスティック・コメディの笑いとどこか、それは重なる。

三浦和人は、1946年、東京鵜ノ木に生れた。桑沢デザイン研究所写真研究科で関口、牛腸らと共に学び、卒業後、早くからカメラマンとして活動。牛腸の早逝(1983年)後、『幼年の時間』『Self and Others』などの作品ネガの保存をひとえに担い、機会あるたび技を尽くし解釈を更新してそれらのモダンプリントを焼いたのは三浦だった。1998年に上梓する三浦初の写真集『会話 correspondence』所収のシリーズ各々は、いわば他者(牛腸)のまなざしにダイブし、内在的に辿りかえすただ中からゆっくり生い茂りはじめた――。光と影のグラデーション、焦点の深浅、水と陸のあわい、性徴の分岐、はたまた路上で近づき行き違う存在どうしのノンヴァーバルな交信が、紙の上に静止した画面の中でどう波うつか、ゆらぎとして捉えうるかを、三浦の『会話 correspondence』は探る。

ストレンジャーとして地上をずんずん砂ぼこりあげ闊歩する関口。さまざまな岸辺で打ちよせ遠ざかるものに心添わせる三浦。2006年の中京大学アートギャラリーCスクエア「distance」、2008年の三鷹市美術ギャラリー「スナップショットの時間」、2009年の新潟・砂丘館「ふれている遠さ」といった展示で、好勝負をかさねてきた彼らが久々今回共に新作をぶつけあうという。コンポラから遠く離れて、どんな“いまここ”が立ち現れるだろうか。


☆ 関口正夫写真展「こと」6月2日(土)〜10日(日)*金土日開廊 13:00〜19:00

ミウラカズト写真展「とどまる matter」6月13日(水)〜30日(土)*水〜日開廊 15:00〜19:00(最終日17:00終了)

☆ 6月23日(土) 対話 15:00〜16:30 &招宴 16:30〜18:30


ギャラリーヨクト 東京都新宿区四谷4-10 ユニヴェールビル102  Tel:03-6380-1666

ウチそと研通信161―資料展示『影どものすむ部屋−瀧口修造の書斎』をみる―

今回も短い覚え書きである。少し前になるが、慶應義塾大学アートセンターで催されていた、アートアーカイブ資料展ⅩⅥ 『影どものすむ部屋−瀧口修造の書斎』(2018年1月22日〜3月16日)をみた。初めて訪れた会場は壁面、天井が白く塗られたいわゆるホワイトキューブ。壁面に資料の写真群と縮小された印刷物が隙間なく並べられ、最終コーナーには落合の住所がプリントされた住所ラベルと収められた小箱が置かれていた。
壁面上段には1953年から1979年にかけて撮影されたと思われる瀧口修造の書斎、あるいは書斎のなかの瀧口修造と訪れた人たちが写っている写真が時系列順に並べられ、下段には『余白に書く』(1966年みすず書房刊)に集められた、色々な人たちの展示などを機会に書かれた小文が、初出の印刷物とともに、写真と時制をシンクロさせるように並べられている。テキストはかなり縮小されているので、会場には読むための虫眼鏡も用意されている周到さである。箱根細工のように細かく、見始めてすぐは、どんな骨格で組み立てられているのか、皆目見当がつかないという展示だった。会場で配布されていた印刷物も手の込んだもので、デュシャンのトランクのように展示をミニチュアにした態の資料体である。
瀧口修造が各人に投げかけるように書き送ったテキストとともに、見覚えのある写真群もまた興味深く見ることができた。様々な写真家、あるいは特定されない撮影者の写真が、生という言い方もできるだろうそのままの形で展示されている。どちらかというと時系列を重視した選択のようで、こうした写真の見せ方もあるのだと面白く感じた。羽永光利、大辻清司、高梨豊と当然つながりがある写真家の写真もあったが、二川幸夫という名前もあってこちらも興味を引かれる。撮影者が特定されていない瀧口コレクションと覚しき卓上のオブジェ群と、細江英公の撮影したポートレートには気持ちがそそられた。なにか、撮影する人間の欲望が滲み出ているような思いを感じる。書斎の影達がうごめき漂うように、言葉と言葉の間を行き来し、これまでみてきた瀧口修造の書斎写真もあらためて思うように眺めてみるという機会だったのだろう。

ウチそと研通信160―久しぶりに草森紳一を読むー

『本の読み方』-墓場の書斎に閉じこもる-という本を読んで面白かった。著者は草森紳一草森紳一は10年前に亡くなっているが、1994年から1996年まで雑誌に連載されたものが没後にまとめられて刊行されている。成立の経緯はわからない。内容はタイトル通り、本の読み方のいろいろを書き綴ったエッセー集である。あっという間に読み通したが、本というものとのつきあい方をあらためて教えてくれる楽しい本だ。副題の-墓場の書斎に閉じこもる-は毛沢東が若い頃、親の眼を盗んで墓場に隠れて読書に耽ったことについて触れているところからつけられたようだ。毛沢東は読書家であったようである。草森紳一については以前このブログでも書いているが、それ以来久しぶりに草森のページを開くことになった。本の冒頭には「ウグイスの死」と題する寺田寅彦の本の読み方に関する考察が置かれている。何気なしに寺田寅彦の本を開いてみると、・・・右のような出だしの随筆に出っくわしたのである。・・・と草森は書き記す。このー出っくわすーという彼の言葉に出会ったとき、草森の面白さは、何かに出っくわしたときの草森の心の開き方が、こちらの心を動かすのではないかと思いついた。出っくわすという彼の言葉に引きずられて、遅まきだが「散歩で三歩」をまた読んでみると、コンパクトカメラで撮られた彼が出っくわした写真の見え方がもっと身に迫ってくるように感じる。草森紳一のコンパクトカメラによる(ネガカラーフィルムでの撮影だ。)写真群はなかなか説明しにくいものなのだが、『本の読み方』に収められている本を読む人たちのスナップ、あるいは本のある場所などの写真のあり方はなんとも不思議でいろいろな思いを誘う。これらのなんとも言いがたい彼の写真にしばらくとりつかれそうだ。草森紳一には『写真のど真ん中』という丁寧な写真に関する評論集が同じ河出書房新社から出されている。またいくつか草森紳一の本を読み直してみると、考えと言葉の繰り出し方が具体的で、赤瀬川源平に似ているところがあるようにもふと考えた。

今回は備忘録をもう一つ。1月半ばに四谷3丁目のギャラリー・ヨクトで吉村朗のカラー写真が展示された。『THE ROUTE釜山1993』というタイトルで山崎弘義さんの企画である。韓国と一部に中国での撮影が混じるが、それまでの吉村の写真にみられる街の中を走り抜けるような街頭スナップに、飾り窓の映り込みやグラフティに視線がとどまる写真が混じり、次の吉村のモノクロのシリーズの予感をさせるのはこちらの思い込みなのだろうか。吉村の作業の軌跡は折に触れて何かを思い出させる。

ウチそと研通信159 −50年前の『日録』から引き出される−

昨年の秋に代田橋のギャラリー「伝」で、桑原敏郎と谷口雅洋の二人による写真展示があった。桑原敏郎はアジアの街などが写っているカラー。固着とかからはずいぶん離れた足取りと視線で撮影をしている。谷口雅洋のカラーではヨーロッパと思われる場所の叙情的な光と時間がかすめとられていた。どちらも会場また階段の壁面を主体に並べられていたが、それに加えて、床には谷口雅洋の日記風のテキストと写真が大量に、読みたいものがしゃがんで手に取ってみるように置かれ、細かな文字を読み込むことがつらくなってきた最近だが、眼を落としてすこし読み始めてみた。どこから読み始めなければならないと言うこともないのだが、眺め始めてすぐに眼に入ったのは「日録」という文字だった。谷口雅洋の世代が日録というと、1968年に雑誌「カメラ毎日」に数10ページにわたって掲載された、いわば写真と言葉が日付入りで組まれた東松照明写真日記風の作品『日録』を指すことになる。
今から丁度50年前の1968年に、−『写真100年』日本人による写真表現の歴史展−という大規模な写真展がJPSの主催のもと、池袋の西武百貨店で開催された。写真家の浜谷浩が実行委員長、多木浩二中平卓馬らが委員として参加、東松照明もその一員として加わり、東松照明の『日録』では、この写真展の準備期間中に撮影が続けられていることが一つの軸になっている。展覧会のための各地への取材、日々の感想、先輩写真家へのインタビューなどの写真、少なからぬ量のテキストが時系列に沿って編集され、さらには引用という形で、江崎礼二の「赤坊1700人のコラージュ」写真なども『日録』に組み入れられている。一人の写真家の日々の行動と思考を写真とテキストで雑誌という中で織りなされている。活発に、生き生きとこわばらずに語られる写真とテキストの群れだった。現在カメラ毎日のこの号は手元に見つからず、曖昧な記憶を辿っているのだが、頭の中で想い出される『日録』をもう一度確かめてみたい気持ちになっている。歴史の中の写真表現をあらためて確認するという作業をおこなう日々の中で、また写真を撮り続けるという重なり合う東松照明の『日録』のスリルは今新鮮に思われてくる。

ウチそと研通信158 ―時間の積層―

少し前になるが、小田原にある「生命の星・地球博物館」の企画展、『地球を「はぎ取る」』展(地層が伝える大地の記憶)を観た。地層をはぎ取り、型どり、切り取ったさまざまな種類の大型の地層標本で構成された特別展で、地球上で起こったさまざまな出来事、大地の記憶が美しい縞模様として積層、記録されていて、観るだけでも面白いのだが、地層をつくる実験や、学芸員が描いたキャラクターによるひとこと解説など、その工夫された丁寧な解説がとても分かりやすく、楽しい展示だった。
ご存知のように博物館は、歴史や考古、民俗、自然、科学、美術などの専門分野に分かれていて、それぞれの分野ごとに展示が構成されている。それぞれは詳しく紹介されていても、違う分野にまたがって展示している博物館はまだ少ない。ひとつの物事について、例えば理系と文系、芸術と科学や自然など、それらのつながりを読み解くことは素人にはなかなか難しい。
世はダイバーシティ、多様性の時代であるが、専門家によっていろんな問題が解決されてきた一方で、あらゆるものが分類、整理、ランク付けされることで、差異ばかりが強調され、個々のつながりが分断されてしまっているのではないだろうか。われわれが見失ってしまったそれらの丸ごと、全体像を取り戻すためには、あらゆるものに共通し、それらを等しく貫いている時間に注目すべきではないかと考える。
その時間軸は、有名な一族の歴史でもなく、地域や国家の歴史といった、その時々の都合で意味や価値が変わってしまうようなものではなくて、地球の誕生から生命の歴史、この列島の成り立ちという大きな時間の流れとして考えたい。その中でわれわれとそれを取り巻く全てのものが並べられたとき、子どもや高齢者、民族や宗教、国籍、LGBT、理系と文系、学芸員とキュレーター、それぞれのつながりが見えてくるのではないだろうかと、地層を見ていて思ったのだった。

ウチそと研通信157 −澁澤龍彦「ドラコニアの地平展」で地球儀をみる。−

先月の雨もよいの一日、世田谷文学館で催されている「ドラコニアの地平」展に出かけた。澁澤龍彦の原稿や身の周りの品々を主に展示しているとのこと、また知人からミノルタCLEも持ち物として展示されているのを聞いて足を伸ばしてみたのである。澁澤龍彦については以前にもこのブログに記したことがあるが、「胡桃の中の世界」という書物を読んで以来、いくつかの著書をいまだに興味深く読み続けている。
雨のせいか、平日ではないのに観覧者の数は少なくゆっくりと見ることができて楽しかった。あまり混んでいる澁澤龍彦というのもつらいよな、と思うところはあるだろう。会場入り口近くに、まず彼の持ち物である「地球儀」が置かれている。格別に凝ったものではなく、当たり前といえば当たり前な小学校の教室にでも置かれているような普通の地球儀である。何時から彼のそばにあった物かはわからないが、当然国名の表記などは現在とかなり異なっている。澁澤龍彦の短いエッセーに玉虫の厨子をつくる友人の話があるが、正倉院にあるオリジナルではなく、身近な人間のつくるコピーに共感と関心を抱くというところに澁澤の特徴のひとつがあるような気がしてならない。工芸品のような地球儀ではなく、既製品の地球儀を飽かず近くに置いていた事を面白く思う。彼の必要からすれば、ただ地球儀でありさえすればそれで済んでしまうということになるのだろうか。想像以上に「物」に対する執着は薄く、自身の想念を展開させるに必要な事が満たされていればかまわないということなのだろうか。
会場の大部を占めていたのは、自筆の草稿類だった。推敲の後など内容を追いかけるのは到底根気が続かなかったが、原稿それ自体は堅苦しくなく読みやすい書体で見ていても感じがいい。偏と旁がやや離れて感じられる字体にも特徴がある。用箋はごく一部を除いてありふれた400字詰めのコクヨ製が多く、それぞれの出版社が用意している社用の原稿用紙も使われていた。同じ会場に展示されていた、きつく要返却の文字が残されている石川淳の自家用箋の自筆原稿はさすがにインパクトが強かったが、澁澤の場合、用箋にはそれほど頓着していない気配が見えるようで面白い。
地球儀に始まる身辺の様々な物、コレクションも展示されている。鎌倉の澁澤邸については細江英公篠山紀信といった人たちが詳細な撮影をしているので、ある意味で馴染みになっているような気がする。蒐集?されていた絵画や立体なども写真などで見知っているつもりの物が多く、それらのものもいつの間にか自然と澁澤のもとに集まった品々の様にみえて来るのも不思議だ。言ってみればいつしかドラコニアに打ち上げられた漂着物のように感じられたりする。ヨーロッパ旅行時や折々に撮影された写真が展示されている一画に、Kさんから聞かされていたミノルタCLEが律儀にレンズキャップをされた姿で飾られていた。このカメラは多分、ミノルタがCLEの広告を打ったときのカメラと想像される。今でも古いカメラ雑誌を開くと、テーブルに載せられたミノルタCLEを前に座ってポーズをとる澁澤龍彦の写真が見られる。CLEのボディ裏メモホルダーにはフジのフィルム紙箱の一片、それも簡易露光表が差し込まれていた。画像や形象、映像好きだった澁澤龍彦だが、自身はカメラに特に興味を持っていたようには思われない。鎌倉の小町時代の写真にいわゆるマミヤフレックスⅡ型で澁澤が撮影したらしい矢川澄子の写真が残されているけれど、ピンぼけのカットもあったりして熱心な撮影者とはいえないようだ。初めてヨーロッパを訪ねたときはキヤノネットを使っていたようで、そのとき撮影された写真も壁面に展示されていた。澁澤本人がどれぐらいシャッターを押したかは不明だが、ツーリストがごく普通に撮影する人物と背景がつり合う何気ない写真が淡々と連なっていた。