ウチそと研通信156 慰藉と対峙/内と外 榎倉康二〈予兆のためのコレクション〉

最近、榎倉康二の視線をふと感じたのは、イギリスの写真家フランシス・カーニーの作品〈Five People Thinking the Same Thing〉(1998)を見返している時のことだった。双方の写真作品のあいだを繋ぐなにかを感じた、というべきか。

カーニーの5枚組の写真では、部屋(どれも住宅らしい)の中に人物がひとり、顔の見えない後ろ姿で、床に膝をついたり、椅子やソファに腰かけたりしている。暖炉であるとか、洗面台やバスタブ、簾状の日除けの掛った窓辺など、登場人物たちが身をおくのは住まいの内側と外側を媒介する通気弁、水まわりのポイント付近であり、中年以上の年恰好の彼、彼女たちは、寡黙げに手もとを見やりつつ、漠とした彼方へ意識を馳せているらしい。
何をしているのだろう? 陶製の碗からとりだした塩の山をてのひらに受けている。指先に生まれるあやとりのかたちに見入っている。あるいは、つまみあげたペンジュラム型の茶漉し(ティーストレーナー)から落ちるしずくを見まもっている。どの人物もごく日常的でささやかな物質を手もとに見つめ、なかば放心気味に、ゆらぎの行方を感じとろうとしている――日常空間の片隅に浮かぶ極微極小のきざしに何ごとかを占おうとしているように見える。

榎倉康二の写真にも、それとつうじるものがありはしないか。〈Five People Thinking the Same Thing〉の5枚の傍らに、たとえば、打ち寄せる波が砂浜につくる曲線にそって全身を横たえ、それを確かめようとする後ろ姿の男を撮った〈予兆―海・肉体(P.W.‐No.46)〉(1972)という榎倉の1枚を置いてみることができるのではないか。カーニー作品と榎倉作品の後ろ姿の人びとは、周囲にひろがる事物たちの肌理、光のレイアウトに身体を同調させながら、くつろぐこと/知覚を凝らすこと(慰藉/対峙)を、一体のこととして味わっている――。わたしが榎倉の写真につよく惹かれるのは、彼のいう「事物と肉体が対した時に起こる緊張」という事態がそのまま、同時に、深い慰藉に満ちているようでもあるからだと、今、そう思える――それは、自己消去、無機物へ帰していくことを誘う、どこか危険な香りをともなった慰藉であるかもしれないのだが。

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一昨年春、九州へ転居して早々、たまたま訪れた福岡市美術館の常設展示室で榎倉作品に遭遇した――〈予兆のためのコレクション〉と題するそれは、ガラスの蓋のついた木箱に収納された長い刃物のセット5点と、やはり木製の小さめの額にぴたりと余白なしで嵌めこまれた人間の皮膚の写真数点(モノクロ光沢紙)の組み合わせからなる特異な作品で、1975年田村画廊の個展で当初発表され、たぶん、皮膚を撮った写真を彼が作品化した最初のものと考えられる。
初出時から40年あまりを経た〈予兆のためのコレクション〉のひんやりと沈黙をまもった、地学資料の鉱物標本を想わせもするたたずまいを前に、わたしもまたなかば放心し、その場にゆらぎだす何かを追っていた。

これらは“刃物”だろうか? なんとなくそう書いてしまったが、エッジ部分を眼でたどるとモノを切断できるほど鋭利に研がれてはいないようで、“刃物”よりもむしろ“定規”に近くないだろうか。目盛りこそ刻まれているわけではないが、これらは、ある測定尺度を措定する、原器的な物差しとしてここにあるのかもしれない。
榎倉が残した撮影ネガからのコンタクトの中に、この“刃物”または“定規”を自宅アトリエの床などに置いて撮った一連のシートがあって、『予兆 Koji Enokura Photo Works 1969-1994』(TPH、2015年刊)に、6×6判フィルム2本分全カットが収録されている。たんなる記録という以上に、あきらかに撮ることがある探究として展開している、大変興味深いコンタクトシートなのだが、それらをたどって気づくのは、室内の床面に“刃物”または“定規”をそわせたどのカットからも、共通して、窓の存在がだいじな相関物として浮かび上がってくること。
窓から流れこむ光をさまざまに反射し、硬質に冴えわたる光の帯となるそれが、アトリエ内の今ここと窓外に広がる世界を二重に映じ、内と外の関係の布置を感知させる――。鋼のそれは、窓との相関をつうじ、外部の広がりと眼前の“ここ”を繋ぐ、言いかえれば遠/近を媒介する、榎倉的なパースペクティヴ(遠近法)を創出する試みとして、これらのコンタクトシートに現れているのではないか?

人間の皮膚を接写した榎倉の一連の写真が、当初まず、こうした“刃物”、“定規”または“遠近法”との組み合わせで提示されたものだったことは、立ち戻ってじっくり見つめ直してみるべきことのように思われる。

ウチそと研通信155 −売野雅勇(うりの まさお)の時代−

今年6月末から7月初めにかけて開催した個展「街の記憶術」は、バブル時代と重なる1980年代半ばの築地の変わりゆく情景を撮影した写真で構成したものだった。来場してくださった方々の中にはあのバブル期のことを知らない若い世代も多く、こちらがたかだか30数年ほど以前と思っていたことが、そうした人たちと話をしていると実はひどく遠いことのように感じさせられ、また写真として残されている、消えてしまった築地の幾つもの眺めが、自分自身から離れて一人歩きをしているようにも見えてくる。
会期中、会場でギャラリーのスタッフの人たちとその時代に流行っていた音楽のことを話す機会があった。まだアイドルポップスや歌謡曲が大勢の人たちに共有されていた頃で、すぐさまいろいろな歌手の名前が飛び出してくる。こちらはすでにいい年になっていたけれど、撮影移動の車の中で彼ら、彼女らの声をいつもよく聴いていた。ちょうど来場者の途絶えたときだったので、ユーチューブで思いつくまま当時の動画をみんなで見ながらはしゃいでしまったが、タイミングが合うとこのようなことで意外にテンションが上がってしまう。
謡曲、いまならJポップというところのものなど(1960年代終わり頃にはジャポップという言い方もあった。)いろいろな人のCDやミュージックテープを聴いていたが、好んで聴いた一人に荻野目洋子がいる。デビュー当時の張り詰めた歌唱も良かったが、アルバムをコンスタントにリリースしていた頃の彼女も素敵に思う。そのアルバムのなかに作曲が筒美京平、作詞が売野雅勇というコンビの作品が多く、特に売野という人の歌詞のフィクショナルなストーリー性をとても面白く感じていた。
売野雅勇は当時の作詞家の中でも売れっ子の一人で、シャネルズやチェッカーズなどにも歌詞を多数提供しているが、荻野目洋子のアルバムでは原宿や表参道、キラー通りなど、また湾岸や芝浦界隈のクラブなどバブルの時代の装置を若者達のストーリーに織り込んで、いかにもその時代を歌うといったものだった。が、しかしその時代を歌いながらその実、売野の言葉の心根がどこか嘘っぽくその時代にいないようで、そしてある種の戦後日本のノスタルジーのかけらを含んでいるところに共感していたように思われる。
その後売野雅勇の名前をあまり眼にすることがなかったが、昨秋、吉祥寺の本屋の店頭に「砂の果実」という売野雅勇の自伝風の本が平積みになっているのを見て、懐かしく手に取ってみた。カバーのイラストは鈴木英人といかにもだったが、本を開くと扉辺りに若い頃の売野雅勇ポートレートが載せられていた。メルセデス・ベンツ220SEクーペの前でポーズをとる細身の彼の姿が、右方あがりの日本の戦後と重なり合う。彼の作った歌を聴きながら、築地の写真を撮っていた頃を思い出す。

ウチそと研通信154 連続した自分の個展のこと、山崎弘義氏の「Know Thyself」展について

今年の関東の梅雨はあまり雨も降らないままにとうとう明けてしまったようだ。
ここのところ、3月にギャラリー・ニエプスで、そして6月末から7月初めにかけては小伝馬町のルーニィでと個展が続いた。連続しての展示を初めから予定をしていたわけではないけれど、ニエプスでは「草のオルガン」と題してここ数年に撮りためたデジタルカメラによるカラー画像、ルーニィでは「街の記憶術」と題する30年ほど以前に撮影したモノクロームの築地の画像の展示。結果として二つの内容の異なる展示を、あまり間をおかずに展示することになった。自分の中では振り返る作業と、追いかけている作業を並列したような気持ちになっているのが面白い。けれど、ある意味では実は双方ともにあまり差がなく、常に眼の前にないものを追いかける、という作業になっているのかとも思われる。どちらもギャラリーの企画展ということで、お声を掛けていただいたことを感謝したい。
「草のオルガン」は昨年の日本カメラ6月号に同じタイトルで掲載されたシリーズと同じ流れの画像を自分なりに展示している。このシリーズは富士ゼロックスの広報誌、「グラフィケーション」電子版最新号No.10号にも「草のオルガン」として掲載されているのでタブレット、パソコンなどでもご覧いただける。自分の個展セレクトとまた編集のされ方によって画像がどう違って見えてくるのか、またどのように変化してゆけるのか、地道に作業を続けて行くつもりだ。もう一つ、「街の記憶術」は1980年代の築地の情景を撮影したものだが、これまで未発表の画像を多く含み、ネガチェックが面白かった。この作業の系列でいえば、最初の個展である1970年前後の東京で撮影した「写真都市」(1975年新宿ニコンサロン)以来、東京、川口、上野、川崎、関東周辺の街々、そして今回の築地で「関東という器」がおぼろげにかたちをなしてきたようにも思える。
さて最近見た山崎弘義さんの展示「Know Thyself」はとても興味深かった。家族を撮影した画像で密度の高い写真集を出版している山崎さんだが、今回の展示と合わせて体験すると、見るということについて、集中、執着、の山崎さんの強度の大きさがこちらにより響いてくるように感じる。街中に装置されている監視カメラからキャプチャーされた自分の連続カット、まずは写ることというようにして撮影された上半身裸の自写像、そして太ももから頭部までの自身の裸の「側面」をシルエットで投影した4分割の大きなモノクロームの画像。この3つの要素がお互いに影響し合うように構成されていた。なかでも彼の男性器まで影じられているシルエットが印象深い。高松次郎のことや、プロフィールということではローマ時代の貨幣などもすぐに連想させるけれど、この会場でシルエットが主張した生々しさは記憶に残るだろう。今回は自分の「見かけ」を掛け値なしに認識することとはという展示なのだろうか、次回の山崎さんの発表が楽しみだ。
山崎弘義写真展「Know Thyself」2017年7月11日〜7月23日TAP Gallery

ウチそと通信153 −吉村朗のこと、いくつかの最近見た展示−

 少し前に吉村朗の写真集について大日方さんが書いている。吉村朗は私にとっても気になる人なのでここでほんの少し個人的な覚書を綴っておく。川崎市民ミュージアムでの展示は見ていないが、大日方さんが述べているように、ある時期から吉村朗の写真が大きく変化していったことは気づかされていた。その変化しつつある時期、展示してある彼の写真の前で、ある人がやや強い口調で吉村君の写真は理解できないと批評している現場に立ち会わせたことがある。吉村朗は黙って反発するような姿勢も見せず、スウェーするようにその言葉を聞いているようだった。その彼が以前のネガなどを廃棄していたというのは、彼が亡くなった後に聞かされたことだが、吉村朗の場合はどんな思いであったのかはわからない。しかし廃棄された初期の吉村朗の写真の面白さも改めて認識される機会があれば良いのではないかと思う。少数ながら印刷物として残されているものもあるので、再見できる吉村朗の写真があることを記憶しておきたい。
 年末年始はあまり展示を見る機会が少なかった。東京ステーションギャラリーでの追悼特別展「高倉健」。相変わらず動画の中で生きるものの展示は難しい。高倉健が出演した映画の抜粋をいくつかのモニターで上映、すべてを見ると2時間以上の時間がかかると案内されていたが、東映入社初期の映画はあまり見る機会がないので抜粋といえ有り難かった。展示会場入り口のホールに入ると円形のホール壁面に多数の方向からカラーの任侠映画がランダムに投影されて入場者の影が壁に映じ、また人に映じる。1960年代末のゴーゴークラブやライトショーを思い出させる。もうひとつ近美での瑛九展。フォトデッサンとコラージュなどと晩年の作品まで見られる展示で、青年時代の書簡類もガラスケースに収められ読むことができる。エルンストなどを観た感想なども読み取れる。桑原甲子雄も戦前、瑛九の展示を見てコラージュに感心したことを日記に記している。戦前の写真の世界の様子が、展示されている書簡などでもこちらに伝わってくるようだ。

ウチそと研通信152−寺山修司記念館−

飛行機が着陸した衝撃で目が覚めた。窓からF‐15が2、3機とまっているのが見えた。
三沢にある寺山修司記念館は開館してもうすぐ20年になるが、以前から気になっていた施設で、今回はじめて訪れることができた。
他の作家のいわゆる文学館とは趣が異なり、寺山修司らしく演劇的、映像的な空間だった。薄暗い空間のそこここに隠された寺山の歌は、呪文のようにも思え、その生涯や作品を紹介する展示というより、寺山の世界に誘導する装置となっている。次の無料バスが来るまでの約2時間、小さな施設ではあったが、飽きることなく楽しむことができた。
施設の裏山には記念碑がある。曇り空の下、そこにつながる林道を歩いていると、最近雨が降ったのか落ち葉が湿っていて、空気にアンモニア臭が混じっている。記念館から陰の気を引きずっているようだった。その林道をぬけて丘の上に立つと急に視界が開け、遠くにピンポン球を連ねたようなレーダードーム群が見える。そういえば寺山の母親は米軍で働いていたのだった。
菅原道真平将門など、かつては、非業の死をとげた人間を神格化して神社に祀ったが、現在ではそういった役割を博物館や記念館が担っているのだというような話を小松和彦がテレビで語っていたのを思い出す。明るい照明の下で、モノや情報をきれいに整理して見せるのではなく、多少わかりにくくとも、どこかいかがわしい、まじない的な空気をまとわせた方が、魅力的な空間になるのだと感じたのだった。

ウチそと研通信151 -吉村朗『Akira Yoshimura Works』-

本書(大隅書店刊)の巻頭に収められた〈分水嶺 The River〉は、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件が相次いだ1995年、都市のカタストロフをまざまざと見せつける二つの出来事に挟まれた2月後半の期間に、銀座ニコンサロンの個展で当初発表されたシリーズだった。
吉村朗は1980年代半ば、都市の日常的なシーンを捉えたスナップショットで頭角を表わした写真家であり、筆者がはじめてその存在を意識したのも、新印象派の画家スーラの描いた河畔に憩う人びとの眺め(グランド・ジャット島の日曜の午後)を80年代日本の現実に横すべりさせたマジックを見るかのような、〈ウィークエンド・ピクチュア〉という、プールサイドでの鮮やかなカラーの一枚によってだった。後期資本主義社会的な主体の消滅感ともいうべきものを巧みに定着し、それでいてシニカルになりすぎず、無垢さとユーモアを漂わせているようであるところが、ほぼ近い時期の畠山直哉のシリーズ〈等高線〉とかさなり、”新人類”という当時国内のジャーナリズムでよく用いられたタームとも結びついて、いま脳裏にもつれ浮かんでくるのだが、〈ウィークエンド・ピクチュア〉をはじめとした初期吉村の都市スナップ群は大部分、現存せず、2012年に彼が急逝する以前のいつの時点かに、彼自身の手でフィルムごと廃棄されていたのだという(中平卓馬が『決闘写真論』のテキストに綴った、明け方の海辺でそれまでの撮影フィルムをすべて焼却したという1970年代半ばの場面を想起しないわけにいかない)。80年代作家として同世代の誰より早く脚光をあび、その才能を嘱望される新人だった彼が、80年代(彼の実年齢上の20歳代とかさなる)をかくまで徹底して始末していたとは。。
同時代者にこの『Akira Yoshimura Works』がつきつけるのは、まず、80年代作品の抹消=不在という事態であるに違いない。それは、写真家当人によって準備され、いわば意志的に仕掛けられていた。
分水嶺 The River〉は、80年代的なものからの切断=跳躍をだれの眼にも強く印象づける作品であったはずだ。「日本の大陸侵略の歴史的痕跡を、韓国・北朝鮮・中国が接する国境地帯への旅のなかで探し求めた写真を中心にしたモノクロの作品」(本書解説より)と説明されるこのシリーズから、本書は47枚を収録し、編者のひとり湊氏に確かめたところ、配列は作者が残したプリントのセットにあった通りをそのまま動かさず提示したという。初出時から20年を経過した今、このシリーズに接し、どう見えたかを断片的にメモしてみる。

各ページ1枚ずつ写真を見せる構成を作者自身がどこまで意図に含んでいたかは不明ながら、見開きページどうしの写真はどれをとっても十分濾過の過程をくぐり、磨きぬかれた対置関係に見え、左右2枚のユニットを単位としていくことで、シリーズ全体の緊密な――電子的な転換・移行の速度とダイナミズムをもつ――流れが生み出されている。(隣り合う二つのイメージの語らい、結びつきを糸口として、見ること、読むことが起動しだすように思えるのだ、本作品はとくに。)
たとえば本を開いて冒頭、第6ページ(盧溝橋の破壊された石の欄干)と第7ページ(板門店ツアーのアメリカ人観光客を乗せたバス)の隣り合う一方は縦位置、他方は横位置の写真に一挙に触れるとき、二枚を結ぶ項として、陽射しを遮蔽する”庇(ひさし)”が介在している、という事態がくっきり浮きたってくる。それぞれを一枚で見ていれば、さほど眼に際立たないことかもしれないのだが、前者における砕けた石塊の庇により前景を遮蔽・陥没させる黒、そして後者における晴天下、輝く星印を付けた庇(観光バスの屋根)が落とす影の一帯は、併せて示されることで互いに貫入しあい、視覚を遮る部分的な濃い黒味の感触をこちらの眼玉へ刻みつけてくる。
画面に空を広々と仰ぐことはしなかったし、地平線を見渡す視点に立つこともほとんどなく、また地べたをパースペクティヴの中に安定的に含めた風景描写をすることもごく稀だった(ソーシャル・ランドスケープ、ニュー・トポグラフィクスとは明確に切れている――〈分水嶺〉は、むしろロバート・フランクに近しいところがあるのではないか)。視界を限定づけ、遮る、貧しい小窓のようなフレームでなくてはならない。画面に手触りとして、なんらかの障害感として、見ることを条件づける物質的限界のありかが示されている。見ることへの”庇”の介在は、続く第8、第9ページの街角での人物スナップや、二重橋前広場の風にそよぐ柳の枝々の下でコリアン・アメリカンの青年をクローズアップしたショット(第12ページ)へと続き、〈分水嶺〉導入部を強く方向づけているようだ。
見開きの二枚は、ページを繰るごとに順光/翳り、遮蔽/穿孔、クリア/ブレボケ、直視(間近さ)/遠隔視(介在するTVモニター)といった対置をさまざま組み合わせ、駆けぬけるように転換をかさねていく。超光速航法というSF用語を引き合いに出したくなる、イメージからイメージへの圧縮的移行の鋭さ、スピード感――これは、他にあまり類例を思い浮かべられない、〈分水嶺The River〉ならではの流儀にして力技、吉村朗が掴んだ突破口的な達成だったに違いない。
 
本書は巻頭の〈分水嶺The River〉に続き、その後の吉村作品〈闇の呼ぶ声 Dark Call〉、〈新物語 New Story〉、〈ジェノグラム Genogram〉、そして2004年に北折智子企画で開催した個展〈u-se-mo-no〉の展示作までを収録している。〈分水嶺〉という突破口を抜けて、そこで見つけた手ごたえを拡大・増幅し、さらにアクセルを踏み続け加速を止めなかった感のある彼の軌跡が、見事な印刷でここに再提示された。
短期間で見とおせる本ではないだろう。まずは〈分水嶺The River〉の1995年をしばらく反芻してみることから、本書との付き合いを始めていきたいと思う。〈分水嶺The River〉に現れる、多言語の文字たちの乱舞、斜めに飛び散る光、少女たち、そして立ちはだかる塔の威容は、続く各シリーズでどのように瞬間転位をとげ、変容していくだろうか――。

ウチそと研通信150 −東京南部−

大田区、港区、品川区の3区が「東京南部」と呼ばれていることを最近知った。京浜工業地帯の東京側にあたるが、西東京で育った私には耳慣れない呼び方であった。昨年から仕事やらプライベートやらで、この南部を訪れる機会が増え、東京を南北に行ったり来たりしている。
先日『下丸子文化集団とその時代』(道場親信みすず書房)という本を知り購入した。1950年代、朝鮮戦争の頃、この地域には米軍下請けの軍需工場が多くあり、そこで働く者たちによる「詩」を中心としたサークル活動が行われていたのだという。飯田さんと親交のある旋盤工で作家の小関智弘さんのような方があらわれる背景には、こうした社会的文化的事情があったのだと知った。
労働者によるサークル活動の中でとくに活発だったのが下丸子文化集団で、朝鮮戦争をはさんで1951年から1959年まで多くの雑誌を発行し、またその立ち上げ当初には、安部公房勅使河原宏などが関わっていた(文中では「文化オルグ的働きかけ」という表現)という。
私がこの本に興味を持ったのは、まず「南部」という呼称も含め、東京の西部や東部、下町とは異なるこの地域の雰囲気、その出所を知りたかったことがまずひとつ。さらに人口減少時代を迎え、なお且つ右上がりどころか現状維持も難しいようなこの時代に、値札のついた文化を消費するのではなく、自ら文化を創り出していた時代、地域がかつてあったということで、宮沢賢治の農民芸術や、鶴見俊輔の限界芸術などにも通じるように思われ、今後、町おこしや博物館活動など、地域での活動を考えていくうえで何かヒントがあるのではないかと思ったからである。