ウチそと研通信5 −「とべない沈黙」の写真−

動画と静止画について、大山さんが考察をしている。大山さんの論考とは少しずれるけれど、動画と静止画の関係のなかで少し面白いと考えられる写真のジャンルに「スチル写真」(あるいはスチールとも呼ぶ)というものがある。そのままだと静物写真の事と思われるかもしれないが、映画の内容をスチル、つまり動かない写真で説明しようとするものだ。映画のポスターなどに使われている、映画の1場面を抜き取ったような写真である。
演劇や、演奏会などを記録する写真撮影の類と似ているようで、しかし重ならない。それは何らかのパフォーマンスの撮影ではカメラの視線はその場に立ち会う、任意のひとつの眼として成立している。一方で「スチル写真」は映画の視線とは絶対に一致することのない付随的な視点からの生成物である。在り方としてはどこか常に不自由なものだ。しかしそれだけでかたずけられない場合もあるように思う。
いつの事であったのか、写真家の高梨豊さんに話を伺っていた折「とべない沈黙」という映画の話題になった。黒木和雄監督作品で1965年に公開された白黒の映画である。前年に完成していたがスケジュールの都合で翌年の公開となっている。主演は加賀まりこ、音楽は松村禎三、そして撮影は鈴木達夫である。この鈴木達夫の撮影、息が継げないような冒頭部の手持ちの長回しは当時かなり話題になり、私も驚かされた記憶がある。高梨豊さんは、話の中で思いがけないことを話された。「とべない沈黙」のスチル写真は森山大道のだよ。…..と。
その晩、遅い時間だったが森山さんのスチル写真が沢山載っている古い「とべない沈黙」のパンフを捜し出してみた。その頃、アートシアター系列が出していたシナリオつきの小冊子である。アゲハチョウを受け渡そうとしている二つの手が空抜きで撮影されている表紙だ。この当時すでに森山さんはカメラ毎日などで粗い粒子のモノクローム写真のシリーズを発表し、後年の森山さんの世界が展開し始めていた。パンフの写真はごく普通の奇麗に整った調子で、大きく背景をぼかした加賀まりこポートレートや、スタジオでフアッション風に撮影したものなど、ある意味ではおとなしく、静かな抒情味にあふれたものだ。そのような調子の違いから、同じ写真家の仕事と気づくのは難しい。実際、数年前高梨さんから教えられるまでは想像もできなかったのだ。
しかし、改めて写真を見ると森山さんの「とべ沈」(と略称されていたらしい)の仕事もまた魅力に満ちている。映画のスチルという世界も独特のジャンルなのだが「とべない沈黙」の抒情性と重なり、またひとつの1960年代が、森山さんの体を通し、若々しいその時代の画像、或いは映像として、定着されているのではないかと思われる。ちなみにこのパンフレットには森山さんの名前はなく、別な資料にはスクリプターの項にその名前が記されていた。